短編小説「武蔵が無になるとき」
全速力で間合いを詰める。
小次郎の端正な顔が徐々に大きくなる。
血走った眼差しが全ての動きを認知しているかのように己の全身に突き刺さる。間合いは三間を切る。
互いが踏み込めば剣が届く距離に迫る。
だがどちらかが踏み込まなければ届かない距離。
見切る。
踏み込むと見せかけてその場を動かず相手に初太刀を打たせて空を切らせ隙が出たところを確認してから、確実に相手を仕留める。
佐々木小次郎の「燕返し」はそれを応用しているが、相手に予測のつかないような長い剣を使い、燕を斬ることが出来るほど早く斬ることのできる天才的な才能が彼独自の必殺技をなしていた。
互いの境界線を越えた。
小次郎の初太刀が来るはず。
左から右にかけて顔の前を初太刀が横切る燕返しの前触れが来るのだ。
それに惑わされてはいけない。
間髪入れずに次の太刀が来るからだ。
初太刀に反応して脇構えから木刀を上げてしまうと右胴はがら空きになってしまう。そこを小次郎はすかさず次の太刀で難なく右胴に切り付ける。
それ故、小次郎の初太刀には反応してはいけないのだ。
構えを崩して木刀を少しでも上げるな。何があっても自分の間合いにはいってから打ちこむのだ。
武蔵は肝に命じていた。
その距離に入る。
小次郎は微動だしない。
初太刀を出さない。
もはや武蔵は勢いをつけて突進しているので、それを見ても勢いを緩めることも止まることも出来ない。
小次郎の顔が目の中一杯に入った。
眉ひとつ動かさない冷徹な表情。
しかし、目には間合いを正確に読み取ろうとする思惑が読み取れた。
自身に満ち溢れた小次郎の顔。
あと五寸で小次郎の間合いに入る。
武蔵が打ちこむにはあと一尺。
でないと届かない。
あと一歩踏み込まないと。
決死の覚悟で、次の一歩に踏み出した瞬間に小次郎の切先が動いた。
頭上高く上がっていた切先はさらに高く天を衝くばかりに突き上げられた。
それは武蔵の視界から消え去った。
振り上げた両袖の間から小次郎の顔が、さらに大きく映し出される。
躊躇するな。
その一足を前に出せば小次郎の間合いに入ってしまい確実に斬られる。
踏み出している最後の右足が左足を追い抜く寸前両足が揃った瞬間。
力の限り大地を踏みしめた。
砂が重い悲鳴を上げ武蔵の両足は砂の中に打ちこまれた。
その勢いで出た砂埃が弧を描かず真っ直ぐに小次郎の下腹めがけて飛びだした。
前かがみになっていた体勢が足を踏ん張ることによって顎が上がりそうになるのをぐっと堪え尻餅をつかんばかりに腰を落す。
櫂で作った木刀の切先が砂の中に埋もれていくのがわかった。
武蔵は思い返した。
船頭が左手一本で櫂を操り急停止させる時の船が沈み込む感覚。
その刹那しまったと思った。
間違った。
小次郎が当然使うはずの燕返しを使ってこず、初太刀で勝負してくること。
無防備な状態で、間合いを詰めており、相手が一寸でも前に出れば切られる距離にいること。
一番重要なことは、小次郎の太刀の動きを見てから反応していることだ。
小次郎が先を仕掛けてから、応じようとしているために後の先になってしまっているということだ。
今まで戦った相手には全て、先々の先の技で勝ってきた。
後の先で戦ったことは一度もない。
武蔵は体が沈み込む間に、それらが脳裏を横切った。
自然に目を閉じていた。
無になり力を抜かなければ深く沈まないし、また浮かび上がることが出来ない。ひたすら小舟に乗っていた時の感覚を蘇らすことに専念した。
無になれ。
武蔵は全身の力が抜けて軽くなり、頭の中で雲一つない青空が広がっているように感じていた。