秘剣 つばめ返し!(『宮本武蔵はこう戦った』より)
おもむろに、佐々木小次郎は背負っている刀を下から前に回し、鐺で大店の軒先にある燕の巣をはたき落した。
白っぽい土煙をたてながら、巣は地面に落ちた。
砕けた。
砕けた中に、何やら黒く動くものが、五つ六つ混じっていた。
それは、よく見ると、子燕であった。
まだ飛ぶことも出来ない子燕は、歩くこともやっとのことで、一つに集まって、唯か弱く泣くばかりであった。
小次郎は、落とした巣には一瞥もくれず、群衆を一通り見渡すと正面に広がる通りに顔向け、視線を空に向けた。
空を見つめたままに、小次郎は静かに息を整えている。
集まっている人々も、それを見て静まり返る。
小次郎は、動かない。
吸い込まれるような青空のただ一点だけを見つめている。
集まっている人々も、息を凝らして小次郎を見ている。
全てが止まり、瞬間だけが小刻みに流れているように思えた。
やがて、時は破られた。
小次郎は、片頬だけをを動かし、にやりと不敵に笑った。
次の瞬間に、身をのけぞらし、抜刀した。
白昼、抜かれた刀身は冷たく輝く。
そして、あまりにも長い。
こちらまで届きそうな程である。
周りで見物している物までも、緊張感が張りつめた。
小次郎は身を低くして、右手首を肩のあたりまで下げた。
極端に刀を寝かした八相の構え。
吸い込まれるような青空に目を凝らすと、極小さな黒い点。
その黒い点は、少しずつ大きくなって行く。
それは、あたかも小次郎に向かって、放たれた弾丸のように思われた。
その弾丸が、真っ直ぐに小次郎に向かって来る。
百間ほどに近づいた時、それは姿を変え、羽が生えた。
羽ばたきせず、宙を滑る姿。
燕だ。
先程、小次郎が壊した巣に向かって、帰ろうとしている親燕の姿だった。
小次郎は、巣の跡を背にして、向かって来る燕を前に、瞬き一つしない。
あたかも、草原で、獲物を捕らえようとしている豹の如くであった。
柄の握りを微妙に変えた。
小さな動きが、備前長光の刃の向きを変えた。
鍔元から刃先に向かって、閃光が長く走った。
向かって来る燕の軌道に対して微妙な修正が、行われたのだろう。
小次郎は、目の前に迫ってくる燕を今度の対戦相手である宮本武蔵に見立てることにした。
意識を集中させ、相手を見据えた。
己が描いている通り、微塵の狂いもなく、燕は向かって来る。
燕は、羽ばたいていた翼を震えるように一度動かすと、拡げたままにして、空をすべらせた。
矢じりのような姿に、身を変えた燕は自分の巣までもう少しのところまで迫ってきていた。
「行く手を塞いでいるのは、人だろうか。人なら、顔をめがけて威嚇して脅かしてやり、我が巣に戻ろう」
燕が、小次郎まで五間ほどに迫った。
小次郎に当たるかと思われた時に、緩慢な動きで大きく長光を振りだした。
誰が見ても、燕を切り落とすには、あまりにも遅い動き。
振りだす間があまりにも早い。
いかに長さ自慢の長光をもってしても、あまりにも離れすぎている。
しかも、八相の構えから出された太刀は、振り下ろすというよりも、目の前を撫で振り払うように出された。
それは、燕には切先が向けられず自分の前を大きな扇子のような弧を描いたに過ぎない。
誰もが、切り損じたと思った。
燕は航路を変えた。
目の前に何者かが横切ったので、本能的にそれを避けて飛ばなくてはならない。
上昇すれば、この速さでは我が巣を飛び越してしまう。
下をくぐり、直前で、羽を拡げ、速度を落とし急上昇をすれば無事にたどり着けるはずである。
燕はそれらをとっさに判断した。
小次郎の膝元を通り抜け、大きく羽を拡げ、我が巣に向かって上昇して行く。
その動きは、小次郎の長光の緩慢な動きにつられて、ゆっくりとしたものになってしまった。
今、目の間を横切ったものが、振り子のように次に自分に向けられたとしても、あれくらいの速さであれば、その前に悠々とその前に戻れるはずであった。
失速しそうになるところを、最後の力を振り絞って羽ばたき、巣の縁に足をかけようとした時、燕は初めて気がついた。
「我が巣が、消えてなくなっている」
一瞬、燕の動きが止まった。
そして、ゆっくりと羽ばたきをしながら失速していった。
地面に落ちても、それはまだ羽ばたきをしていた。
何が起こったのか、わからなかった。
その太刀の動きが早すぎて何も見えなかった。
ただ、飛んでいた燕が、羽ばたきながら急に落ちて、堕ちた姿をよくよく見れば真二つに切り離されている。
小次郎が後ろに向きを変えており、手にしている長光が右下段に構えを変えているのを目にして、初めて燕を斬ったのがわかった。
斬られた燕は、奇しくもか弱く泣き叫ぶ子燕の目の前に落ちていた。
子燕にとっては、行き場を無くした我々を親燕が助けに来たと思ったのだろう、覚束ない足取りで近寄ってきた。
優しい目を見開いて、羽を拡げた親燕の姿は普段と少しも変わらない。
それぞれ思い思いに親燕の周りに集まった。
しかし、一向に親燕は、声をかけてくれない。
手を差し伸べてくれない。
何かおかしい。
よく見ると、親燕の体が、二つに分かれている。
もはや、それは親燕の姿をした、ただの物体に過ぎなかった。
ただ、大きく開かれた瞳には、子供たちの姿が映し出されていた。
小次郎は、何事もなかった様に、鷹揚に両手を大きく拡げ、愛刀長光を懐紙で拭った。
その刀身は、血糊も付いておらず、切先から三寸ほどの所に、うっすらと細い筋の曇りが見えるだけであった。
小次郎は、鞘を背にしたまま、器用に長光を捌き、鞘に納めた。
「恐るべし、燕返し」
武蔵は、目の前で行われた小次郎の必殺技を目にして、凍りつくような戦慄を覚えた。
つづく