短編小説『暗闇の中で浮かび上がる幻』
私は、涙を流す香田さんの姿が美しいと感じた。
何の理由もなしに、美しいと感じた。純粋、無垢なものが、ただ単に美を認識ように、美しいと感じた。
以前にも、彼女の涙のあふれている瞳をどこかで見たことがあるような気がする。それがどこか、思い出せない。そんなことは、あるはずがないのに私の記憶の中に残っている。でも思い出せない。遠く離れた処から見ているのだが、記憶には目の前で涙を流している香田さんがいる。
確かに、目の前で涙を流している香田さんがいる。
いったい私は何処に行ったのだ。
彼女の視線は、私を通り過ぎている。彼女の瞳には、過去が映し出されている。
そして、瞳の清らかで美しさの中に未来をも、浮かび上がらせている気配がある。現在の私はそこにいない。
私は、香田さんの過去と未来に嫉妬した。
「シャシャチョウ、コーダミツキですよ。コーダミツキ。お願いしますよ」
唐突に、立ち飲み屋で出会ったヤマギシと名乗る若者のことを思い出した。
なぜか、彼にも嫉妬を感じた。
「貴島支社長、お願いがあるのですけど・・・。電気を消してもいいですか?」
香田さんは、突然意を決したように口を開いた。
なぜ、電気を消すと言い出したのだろう。でも、「キジマシシャチョウ」と彼女の口から出たメゾソプラノの音が、とても清らかで良い響きを持っていたので、どんな願いでも叶えてあげようと思った。
「いや、別に香田さん、構わないよ。真っ暗の中で食事をするの?」
「一度、キャンドルの明かりの中で食事をしたいと思っていたので・・・。いいですか」
「いいよ、構わないよ。ろうそくの明かりで食事とは豪華な感じがするね」
「ありがとうございます」
すぐに、彼女はキッチンに立って準備を始めた。
修道女のように両手で、火の灯ったキャンドルグラスを持った香田さんは、テーブルクロスの隙間の黒い四角形の中心にそれを置いた。
「それでは、電気を消します」
「その前に」
「その前に?スパークリングワインですね。忘れていました」
香田さんが、冷蔵庫に入れられたスパークリングワインを取り出して、私が栓を抜いた。拍子抜けするくらいに低い音を立ててそれは抜けた。それぞれのディズニーのグラスにワインを注ぐ。
「ごめんなさい、こんなグラスしかなくて」
「そんなことはないよ。気にしないでください」
ディズニーのグラスに注がれたスパークリングワインの泡を見ていると娘のカンナのことを思い出した。カンナは小学生の頃は、炭酸を飲めなかった。
「電気を消します」
周りが暗くなるのと同時に、テーブルに置かれたキャンドルの炎がいきなり主張し始めた。
華やかな黄金の光を拡げながら、影を作り出した。今まで見えなかったものが、浮き上がってきた。
「いただきます」
香田さんの声が頭の中でこだました。そして、それはゆっくりと回りながら、メロディーを奏でる。
彼女が、歌ってくれた歌だ。それは、遠くで奏でる小鳥のさえずりのように、ゆっくりと私の中に心地よく染み込んで行く。