【総括】わたしとベルばら2024夏

 ついに宝塚版ベルサイユのばら2024が終わってしまった……数多のタカラジェンヌが「夢」と語る作品。ほぼ10年に1度しか上演されないこの作品に、このタイミングで、いまの雪組のキャストで見られたことが本当に幸せだった。
 7月から10月まで、舞台というのは限られた期間しか見られないものだから、10月になって男役としての咲さんに別れを告げることに加えて、いまの雪組子たちが演じるフェルゼンやアントワネットやオスカルなどお役に別れを告げないといけないことがものすごく寂しくなった。

わたしの楽しみ方

 まず、7月のmy初日の前に漫画「ベルサイユのばら」を読み、登場人物ひとりひとりの現代にも通ずるような葛藤を描きつつ、壮大な大河ドラマとして成立させる手法に驚いた。50年以上前から全く色褪せず、力強く訴えかける物語。宝塚版では各登場人物の描写がいくらか省かれ、筋も省略されている部分が多いため、漫画よりも感情を預けづらく、完全ではないダイジェスト版と言うべきかもしれない。また、初演から50年経つ今年、台詞回しや視覚デザインなどの様式化が進み、それはもはや古臭い古典だと敬遠する人がいることも知っている。しかし、その古典を古典のまま見ることができるのは、宝塚に「何か懐かしいもの」を求めている私のようなファンにとっては何にも変え難い喜びであり、同時にそれを演じ切った雪組のキャストの凄さを実感する。

 ダイジェスト版と言ったが、宝塚版ベルばらを原作漫画のダイジェスト版と位置付けるなら、私にとっての楽しみ方は物語の流れよりも場面ごとの描写に注目することだ。何度か観劇するうちに、各幕の最初にある小公子と小公女の場面が、「これから私たちが語り部として見聞きしたお話を語ります」と言うために存在しているのではないかと思うようになった。つまり、舞台上のベルばらの世界は、語り部である子どもたちによって形づくられたもので、私たち観客はその時に可愛らしく、時には子どもなりに真剣に語るのをを聴くために集まったと言えるかもしれない。花道と袖近くにずっと置かれているピンク色のばらのパーテーションは、そんな子どもたちの虚実織り混ざった華やかな物語を囲み、観客と物語の世界を隔てる。小公子と小公女たちにとって王宮のきらびやかな生活は夢のようで、my初日後の記事でも書いたけれど、観客にとっても(ジェンヌたちにとっても)憧れの夢の世界であり続ける。

 その世界を忘れないように、場面ごとに好きなところを記しておく。

公演期間をともに過ごした公演バッグ

____________________

第一幕 「涙の白薔薇」

第一場 プロローグA

 カランコロンと鐘が鳴り、ただそれだけでベルばらの世界が幕開けることを全身で感じられる。幕が開くと「ベルサイユのばら」のタイトルと共に小公子と小公女がずらっと並ぶ。短調の曲でもにこやかに踊る小公子、小公女たちを見て、逆に抗えない運命に対する哀しみみたいなものを感じる。

第二場 プロローグB

 第一場に続いて、第二場にもプロローグという題がついている。この物語の主な語り部は小公子と小公女だけれど、フェルゼンも語り部の一人であるということがここで示される。フェルゼンはアントワネットから受け取ったステファン人形を抱えていて、アントワネットの死後に回想として「面影は」と歌っていると思うと、決して明るい心中ではないと思いつつ、幸せそうにアントワネットを思い出す姿は、観劇後に思い出すと救われるところがある。

第五場 幻惑

 フェルゼン、マリー・アントワネット、オスカルがそれぞれ独白の形で愛の告白をする。最後、アントワネットにスポットが当たり、原作の絵を背景に3人がゆっくりと迫り上がっていくところが好きだった。せり上がった時にアントワネットが一番高いところに来るのも、彼女の気高さが目に見えるようだった。

第十六場 オスカルの居間

 オスカルがアンドレの想いを知り、今宵一夜へと繋がる場面。フェルゼンからの手紙を読んだオスカルが動揺しつつもアンドレを呼び出すのだが、その前にオスカルが発する「近く、近く魂を寄せ合って生きてきた」というセリフが本当にすごい。この時オスカルは客席に背中を向けている状態なのだが、「近く……近く……」という声だけで、オスカルがアンドレの愛を実感し始め、驚きと喜びをひしひしと噛み締めていることが伝わってくる。

第二幕 「別れの紅薔薇」

第二場 プロローグB

 市民たちの激しい群舞なのだが、踊り終わった後に第一幕の夢幻の場面でも登場したバラの精たちが登場する。怒りに震える市民の前に、愛の象徴のようなバラの精が被さることは、市民と貴族の間にある埋まることのないギャップを感じさせて悲しくなる。

第四場 チュイルリー宮

 ベルサイユ宮から荒れ果てたチュイルリー宮へと移ってきた国王一家を描く場面。最後、アントワネットが「私の罪 それは平凡な女が女王になったこと」と歌う。彼女が自分を平凡だと思っていたのだと驚くとともに、それを罪だと考えていることから、人知れぬ葛藤を思い知る。原作のエッセンスをうまく取り入れた歌詞になっていると思う。

第七場 馬車

 理性など抜きにして好きな場面。咲さんの男役としての集大成を見ている気持ちになる。

第十場 セーヌ川に架かる橋

 オスカルが民衆とともに戦うと決心する。「たった今から私は女伯爵の称号と私に与えられた伯爵領の全てを捨てよう」と宣言する潔さ。ライブビューイングでアンドレが抜かれていて初めて気づいたが、アンドレがそんなオスカルを優しく見守っているのも良い。その後の「さらばもろもろの古きくびきよ。二度と戻ることのない、私の青春よ」とはっきり言い切る台詞も心に残る。

第十一場 バスティーユ

 言わずと知れたバスティーユの場面である。まず、戦闘の場面を敵を見せずに踊りだけで見せる様式がすごい。それから、オスカルが銃弾に倒れ、駆け寄るロザリーの表情がそれまで劇中で描かれなかったオスカルとロザリーの絆を物語っている。ロザリーについての描写は最低限だけれど(ジャンヌとの関係についても語られていない)、ひたすらオスカルを慕っていたということが伝わってくる。

第十三場 牢獄

 宝塚でこんなに重厚な芝居を見たのは初めてかもしれない。アントワネット(というかあやちゃん)の台詞の発し方、一つ一つが全て素晴らしい。気品を失わず、それでも諦めと悲しさがあって、フェルゼンが出てきたところで一時少女らしさを取り戻すのも。

第十四場 断頭台

 大階段に作られた断頭台への道を上っていくアントワネット。アントワネットを見送ることを決心したものの、やはり心の中で諦められないフェルゼンの悲痛な叫び。最後はフェルゼンがセリ下がり、断頭台への道を進んでいくアントワネットの後ろ姿だけになる。アントワネットが上り切り(つまり処刑され)、階段上に大きな紅薔薇が浮かび上がる展開は、今回のベルばらで一番好きなところ。色数の少ない洗練された空間と、鮮やかなタイトル回収に舞台ベルばらの真骨頂を見る。

第十五場 フィナーレ

 できるだけオペラグラスを使わずに見たいフィナーレ。特に好きなのは、男役だけの群舞の途中に「愛の面影」の歌唱が始まり、大階段を娘役がずらっと降りてくるところ。それから静止した娘役たちの合間を縫うように咲さんが踊り抜けていくところ。


 咲さんは舞台全体を使って大きく踊る。自分が劇場が好きなことを改めて思い出させてくれる。私が劇場を好きな理由は、いろんなバックグラウンドを持った人が、一つの場所に集まって同じ舞台を共有している時間が好きだから。でも、それだけではなく、客電が落ちてから自分の目線が舞台の上にだけ向いて、まるで舞台上の出来事独り占めしているような感覚に陥る瞬間も好きだ。咲さんが銀橋を渡って踊るところ、こちらに手を伸ばすところ、私はオペラグラスを離して目の前で起きていることを見つめた。その時だけは、私のためだけにこの舞台が進んでいるんだと錯覚できた。

大千穐楽の話を少しだけ

 my初日観劇の記事にも書いたけれど、咲さんは最後まで「客席の片隅の愛しいあなた」に向かってパフォーマンスする人だった。大千穐楽も、東京宝塚劇場の客席にいても、私みたいに映画館の客席にいても、家のテレビの前でも、私たちは「あなた」のひとりだった。フィナーレの銀橋から客席に手を伸ばす振りのところで、めずらしく涙を堪えるような咲さんの姿を見た時、咲さんが本当にずっと「客席の片隅の愛しいあなた」を思ってくれていたことが分かった。

 ご卒業本当におめでとうございます💐幸せな時間をありがとうございました。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集