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ロボット・ドリームズを観た(という日記)
新宿武蔵野館で先日『ロボット・ドリームズ』を観てきました。見出しの画像は生成AIでつくった「ホットドッグを食べるロボット」の画像です。
夏ぐらいからずっと楽しみにしてたんですが、いざ観てみたら非常にたくさん思うところがあったので、日記として感想を記録しておこうと思います。なお、こちらの文章には本作『ロボット・ドリームズ』と映画『ラ・ラ・ランド』のネタバレを多分に含みますので、ご注意ください。
『ラ・ラ・ランド』ではない
調べてみると『ラ・ラ・ランド』が公開されたのは2016年(!?)のようで、わたしは当時まだ大学生、鑑賞後の劇場では号泣絶賛している人と、「バッドエンドやんけ」と不服そうな人が、だいたい半々ぐらいだったように記憶している。わたしは『ラ・ラ・ランド』に関しては圧倒的に支持肯定派で、冒頭の"Another Day of Sun"が今後の展開すべてを物語っていて最高なんだ!と会う人会う人に言っていたような気がするし、今でも当時と同じ熱量でそう思っている。
(改めてgoogle検索で『ラ・ラ・ランド』と打ってみると『意味がわからない』が次の検索ワードに出てきてちょっと面白かった。)
本作『ロボット・ドリームズ』と『ラ・ラ・ランド』は、クライマックスでふたりの美しい思い出たちが音楽を媒介してブワアアと走馬灯(≒白昼夢)のようにあふれ出すという展開が共通している。酷似とかでなく、テーマが同一である。
音楽の力も相まって、それはそれで有無を言わさずぼろぼろ涙が出てきちゃう、そういうものではあるのだけど、でもやっぱり今こうして思い返してみても、『ラ・ラ・ランド』のときのように、叶わない白昼夢を反芻する美しさみたいなものを、『ロボット・ドリームズ』では納得して感じることができなかった。
どうしてこんなにもやもやしてしまったんだろう。『ラ・ラ・ランド』との相違点をいくつか挙げていく形で、自分なりに整理してみようと思う。
①主体性が違う
まず思ったのは、『ロボット・ドリームズ』での離別のきっかけになる、「海水浴をしたらさび付いて動かなくなっちゃった」「ビーチが閉鎖されてしまい来年まで入れなくなっちゃった」が、うっかりでしかない、ということだった。
うっかり。『ラ・ラ・ランド』では、べつに、うっかりしていたから相手と離れることになったわけじゃない。それぞれの選択の理由が描写こそされないがきっとあって、それがすごく良くて、(いろんなことが…あったんやな……)とわたしたちがふたりの生きた時間に思いを巡らすことができるようになっている。
でも『ロボット・ドリームズ』にはその余地がない。離れ離れになってからの1年間がしっかり細かく描写されていて、それぞれめちゃくちゃ豊かで美しくて、悲しいこともきちんと起きる。でも裏を返せば、それによって空白がない。だからなんだか登場人物は時の流れに身をまかせ、降り注ぐ現実を浴びる客体になってしまっているように見えてしまっている、ような気がする。
②目的が違う
あとはやっぱり『ラ・ラ・ランド』と比較するなら、『ラ・ラ・ランド』のふたりには「女優になりたい」「ジャズピアニストになりたい」という目標が別に確立してあって、「ふたりで一緒にいたい」は等価交換された現実だったという点が、ぜんぜん違う。
その点、『ロボット・ドリームズ』のふたりは目標そのものが「ふたりで一緒にいたい」であり、叶えたい夢になっている。前者は夢を得てあったかもしれない現実1を失い違うパートナーとの現実2を得るが、後者は夢=あったかもしれない現実1を失い違う現実2を得る、という構図に見える。フェアじゃない。欲望と現実の釣り合いが、どうにもとれていないような気がしてしまう。
③生きている次元が違う
そして何より、劇中で、ロボットが雪のなかから画面を超えて脱出するというメタフィクションのシーンがある。あれはやっぱり、アニメの世界の非現実性の強調、けしてわたしたちが生きているこの現実の地平でおきていることではないという、「操作された世界」についての確認だとわたしは思った。
実写映画は、登場人物がどこか別の場所で実在しておりそれぞれの人生をどこかで送っているのかもしれない、という錯覚を抱きやすい。『ロボット・ドリームズでは』誰かが作ったアニメの世界の出来事である、というのが前提にある。
もしこの映画が実写映画だったら?犬やロボットではなく、イチ人間だったら?見えていない時空の続きをもっと自然に想像することができて、人生を操作されているなあ、とは思わずに観ていられたのかもしれない。
いや、『ラ・ラ・ランド』かもしれない
でもまあ、ここまで書いたけど、なんだかんだふたりが離れることの必然性、みたいなものについては、作中でも細やかに描写されていたような気もしてきた。人間だろうが犬だろうがロボットだろうが、主体性があろうがなかろうが、確かにこの話は「人生」の話だった。
ふたりとも非常に愛すべきキャラクターなのは大前提としても、ドッグのラブドールのような存在を購入して友人を得ようとした生き様は最後まで結局変わらなかったし、中盤公園で知り合ったダックも自分から友達になろうとアクションを起こしたわけではなく、へんに行動力はあるが対人関係に関してはアイツは終始受け身なやつだった。
ロボットもロボットで、なにか性格や思考に欠点があるというわけではないが、無垢なロボットだからと精神が悪意のない子ども化していて(人間の子どもには総じて悪意がありますが)、繰り返し白昼夢を見ても自身の欲望について考えあぐねて精神崩壊するほどのことはなかった。
ふたりとも、とても未熟で、未熟な様はやっぱり強烈なリアリティがある。『ラ・ラ・ランド』も『ロボット・ドリームズ』も、青壮年期の混乱した、子どもで大人な青春のアーカイブだと思えば、やっぱりいいもんだなあというような気もしてくる…。
『ラ・ラ・ランド』にもブチ切れる日がいつかやってくる
しかしともかくとして、新宿武蔵野館を出てわたしは開口一番に「でもさあ!やっぱりわたしは30歳になって映画館にアニメを観に来てるからさあ!やっぱりアニメを観に来てるから!映画館に!」と口走っていた。
だからなんだと自分でも思うが、なんだかわたしにとってのアニメという立ち位置の本質がこの発言ににじんでいるような気もする。だってアニメはアニメなのだ。現実とは次元が違う。
なんか率直にこういうアニメで、事故や災害みたいな喪失を降り注がないでくれよ、と思った。結局はそういう感情だ。だってそれは叶わない白昼夢を見るよりずっと現実なんだもの。
でもこれが本作の「物語」だから、と言われたらわたしは結局どうすることもできない。
わたしは操作された「物語」に納得できないわがままな大人になったんだろうか。それとも大人になれてないから純粋に地団駄をふんでいるんだろうか。
あの時『ラ・ラ・ランド』に感じた美しさも、馬鹿言ってんじゃねえ人生は長いんだからどうにかしろふざけるなと、憤慨してポップコーンを投げる日がもう少しでやってくるのかもしれない。でもなんだか、そっちのほうが今の自分には健康的なような気もしてくる。最後に喪失にきちんと怒ったり、声をあげて泣いたりした日はいつだっただろう。すぐには今思い出せない。
いずれにしても、「できればずっと一緒にいたかった」という純粋目標を叶えられなかったならふたりは知らないうちに全身傷だらけのはずで、叶えられなかった悲しみに蓋をして踊るのはどんなにそれが美しくてもわたしにとっては同時にグロテスクでもある。
最後の"September"は、爆破されたマンハッタン市内でゲロ吐きながら踊り狂うぐらいのものじゃないと、わたし的には釣り合わないような気がしてしまいました。
(言い訳みたいになっちゃうけど、別にオチや構造が納得いかなかったからこの映画がイヤ!拒否!とかではなくて、登場人物の生きている度は人生イチレベルですごいし胸打たれるアニメだったので、今後も繰り返し観ていくことになる作品だと思っています)