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Hotel 六花 Rikka 306 ご自由にお書きください(試し読み)

ショーケース


 中学校の卒業式の後、私は非常階段に賢太けんたを呼び出した。薄暗い踊り場で、彼は少しだけ困った顔をしていた。
「僕さ、引っ越すんだけど、知ってる?」
「知ってる。東京でしょ」
 もちろん知っていた。知らなかったら、告白なんて思い切れなかった。伝えないまま離れ離れになったら、きっと一生後悔すると思った。
「いいの。前崎まえざきさえよければだけど、私その、遠距離、でも、大丈夫」
 遠距離恋愛と言いかけて、顔が一層熱くなるのを感じた。私は思わず視線を賢太の背後に移した。階段を数えるように目で追い、その隅に溜まったホコリに気を紛らわせようとした。声が震えないようにと慎重に小さな溜め息をついた。ゆっくりともう一度、前を向いた。わずかに眉をひそめた彼が、私をじっと見つめていた。
 ダメかも、と思った。じっくりと心臓を締めつけられて、私はそのまま動けなくなった。逃げたい。耐えられない。非常階段の空気はどうしてこんなに湿っているのだろう。湿度の重みに押しつぶされてしまいそう。顔を上げられず床をにらみつける私に、不意に彼の声が届いた。
「いいよ、白川しらかわがそれでいいなら」
 いいよ、白川がそれでいいなら。そう聴こえた。
「本当?」
 私はきっと間抜けな顔をしていただろうと思う。彼はそんな私の様子を気に留める様子もなく、今にも「嘘」と言い出しそうな表情のまま、素っ気なく言った。
「うん、いいよ」
 
 
 
 賢太からのLINEは数日に1回ほどのペースで、そのくせとてもシンプルだった。私が東京での暮らしぶりを訊ねると、彼はいつも事実だけを答えた。私にとってそんな情報はどうでもよかった。私は東京の何かに、賢太が何を感じているのかを知りたかった。彼の言葉はまるで、手を伸ばしても届かない東京の風景そのもののように感じられた。
 それでも、私は幸せだった。賢太から短いメッセージが届くたびに、私は彼が中学2年生のときに書いていた読書感想文を思い出した。
 原稿用紙5枚以内と指定された課題に対して、賢太は書いては消してを繰り返し、ときには原稿をくしゃくしゃに丸めて捨てると、また初めから書き直していた。教室のゴミ箱に転がった紙のかたまりをつまみ上げて開いてみると、擦り切れた表面にいくつもの鉛筆の跡が残っていた。私はそれをもう一度ゴミ箱に戻すことができなかった。行き場所を失った原稿用紙を、私は自室の勉強机にお迎えすることにしたのだった。
 期日ギリギリまで悩み抜かれた感想文は、最終的にわずかに4枚を超える長さにまとめられた。それがそのままコンクールに応募されることになり、遂には特選を受賞してしまった。全体朝礼で表彰される賢太のひどくあっさりとした表情を眺めながら、私は不思議な誇らしさを感じていた。
 彼の心は、霧に覆われた遠い場所にある白い光のようだった。その存在は曖昧だけれど、確かに感じられる。時折、目の前に浮かんで消えるその光を、私はいつまでも見守っていたかった。そのときの気持ちを、彼に告白をした日の夜も思い出していた。私は、机の引き出しに仕舞っておいた彼の没原稿を、卒業アルバムの寄せ書きページへと閉じ込めた。
 
 
 
 一度だけ、賢太に会いに東京へ行ったことがある。会いに行きたいとは何度か伝えていたけれど、彼はそのたびに私を制した。
 
《せっかく来てもらっても会えるか分からないから》
 
 都内でも有数の進学校に通っていた彼は、いつも忙しそうだった。それに、私が住んでいた福島県南相馬市は想像以上に東京と離れていた。
 私の心の余白は1年間の遠距離恋愛ですっかり埋まってしまって、行き場を失っていた。2年生の夏休み、私はなんとか賢太に時間を作ってもらって、片道4時間以上かけて東京にやって来た。小学校の修学旅行以来の東京は、驚くほど暑くて、そして相変わらず輝いて見えた。
 予想通り、賢太も何ひとつ変わっていなかった。「久しぶり」と発する抑揚のない声を聴いた途端、中学生の私がよみがえり、すべてが過去に引き戻されていくような感覚に包まれた。太陽に照らされて熱くなった体のうち、耳だけが内側からも熱を帯びた。行きたいところがあるか訊ねる賢太に、私がなんとか「ううん」と絞り出しながら首を振ると、彼は近くのカフェに入ろうと言って歩き出した。後ろ姿を追いかけながら、私は彼の私服姿を初めて見たことにやっと気づいて、余計に気恥ずかしくなった。
 カフェで過ごした数時間、なんの話をしたのかよく覚えていない。いつもLINEでしているような、最近読んだ本の話だったり、勉強の話だったり、せっかく会いに来た甲斐のないことばかりしていたような気がする。2層にわかれたミルクとコーヒーが、ゆっくりとゆっくりと混ざり合っていく光景が、やけに頭に残っている。きっと手元ばかりを見ていたせいだろう。まともに彼の顔を見られないまま、時間はあっという間に溶けていった。
「獅子座?」
 賢太に聞き返されたとき、耳の奥で、きん、と空気が凍りつく音がした。最近読んだ本に星占いに関するくだりがあって、私はうっかり自分の星座を話してしまった。
「うん、そ……私もうすぐ誕生日なんだ」
 これ以上黙っているのもおかしいと思い反射的に言葉を紡いで、そしてまた後悔した。これではまるで去年祝われなかった恨み言を伝えに東京までやって来たみたいだった。早く何か言わなければと思ったけれど、今は何を言っても逆効果なようにも思えた。
 そんな私を尻目に賢太はおもむろにカバンを開くと、くすんだえんじ色の文庫本を取り出した。
「これ」
「え?」
「古本屋で買ってさ、良かったから」
 それは「唄う空蝉」というタイトルの古い小説だった。手のひらに本の重力が伝わり切ってから、自分が無言で受け取ってしまったことに気づいた。プレゼント。賢太が私に誕生日プレゼントをくれた。家の事情で宅配便が来るのは困るからプレゼントは無しにしようと言っていた賢太が、私に誕生日プレゼントをくれた。どうしよう。私は何も用意して来なかった。どうしよう。とにかく、お礼を言わないと。
「ありがとう。大事に読む」
「うん」
「また感想送るね」
「うん」
 嬉しかった。つき合う前からずっと変わらない様子だった賢太に、私がほんの少しでも影響を与えられている感触がした。
 私は早速、特急電車の中で彼のプレゼントを読み始めた。戦時中、故郷に残した恋人を思いながら戦地に臨む兵士の話だった。かなり骨太なストーリーで、これを私への誕生日プレゼントに選ぶ賢太がおかしかった。でも次第に、主人公たちの境遇が私たちと重なって見えて、たまらなくなった。
 開いたドアから生ぬるくて刺激の少ない空気が吹き込んだ。電車はいつの間にか、自宅近くの原ノ町駅に到着していた。あわててドアをくぐり抜けると、辺りはすっかり暗くなり、ホームだけが場違いな光に包まれていた。東京に辛うじてしがみついている場所のように感じられた。私はベンチにそっと腰掛けると、また、ページをめくった。
 
 
 
 ランチタイムを終えた大学の食堂は、気の抜けた空気に支配されている。点々と席に座っている人たちは、まるでそこに自分しかいないかのような顔をして無感動にくつろいでいる。なんだか居心地が悪くなって、座ったまま小さく伸びをする。眩しい。顔に西日が当たった。私はそこで、自分が思っているより長い時間を過ごしている可能性に気づいた。カバンからスマホを取り出すと、デジタル時計は午後の4時を回っていた。日に日に傾きを強くする太陽に、12月という季節を感じる。私はスマホのロック画面を解除してLINEを開き、賢太とのトーク画面を確認した。
 
≪明日よろしくね! 楽しみだ~≫
 
 今朝私が送ったメッセージ。まだ既読はついていない。大学進学と同時に上京してから、賢太とは2週間に1回ほどのペースで会えるようになった。同じ大学に通えていたら毎日でも会えたのだろうけれど、私の頭は賢太のほど出来が良くなかった。東京での暮らしを始めて半年以上が経っても、まだ戸惑うことは多いけれど、賢太とのLINEのペースは相変わらずで、それにどこか安心してしまっている自分がいた。
「あれ、友紀ゆうきじゃん」
 視線を上げると、千佳ちか怜愛れいあがこちらに歩いて来ていた。その他にも数人の生徒が食堂に入ってくるのを見るに、4時限目の講義が終わったようだった。
「今日バイト?」
「うん。もうちょっとで出る」
 私は金曜日の講義を3時限目までしか取らなかったから、その日にシフトが入ると中途半端な空き時間ができてしまう。たとえ興味が無い講義でも埋めるだけ埋めてしまってもよかったけれど、こんな時間があるのも悪くないと思う。
「1人で何してたの?」
「んー、のんびりしてた。本読んだり」
「本好きだよねー、うわ、古! なにそれ」
 テーブルに置いていた本を見た千佳が怪訝な顔を近づける。その横から怜愛が「あれ?」と何かに気づいたような声を上げた。
「『唄う空蝉』ってあれじゃない? 藤井良治の」
「そう、その原作」
「えー、あの映画ってこんな古い話なんだ!」
 本嫌いの千佳がいかにも嫌そうに言った。
「うん、明日観に行くから、おさらいに読んでた」
「えっ、これ読むの2回目なの?」
「えっと、5回目くらいかも」
「そんなに!? 怖いんだけど」
 千佳はリアクションが大げさで、良いことも悪いことも表情豊かに表現する。だからいつも、彼女とはセンスが合わないのだなと実感できた。大学という環境はつくづく新鮮だと思う。特にサークルで知り合った人たちは、私が福島でつき合って来た友だちとはまるで違うタイプの人間のように感じた。
 私たちは毎週月曜日にテニスコートに集まり、適当にボールを打って、申し訳程度の汗をかいた。月に1回は必ず飲み会があって、私と同じくお酒が飲める年齢ではないはずの怜愛と千佳は、そんなことは全く気にしていない様子で楽しんでいた。私たち大学生にとって「自己責任」という言葉はある種の大きなテーマで、それは足かせであると同時に甘い蜜でもあった。
「これは特別。高校生のとき、賢太にもらった本だから」
「じゃあ明日って、彼と観に行くの?」
 私とテーブルを挟んだ正面の椅子を引きながら怜愛が訊ねた。
「うん」
「ふうん」
 怜愛は意味ありげに口元を緩ませながら、嫌にゆっくりとした動きで腰を下ろした。私が2人に感じている新鮮さを、彼女たちも私に対して感じているようだった。
「あれから進展あった?」
「まだ。なんかね……うまく進まなくって」
 私がぽつりとつぶやくと、怜愛たちの瞳が好奇の色を強くした。怜愛たちが生きてきた世界には、きっと私たちのようなカップルは存在しなかったのだろう。春に賢太の話をしてから、2人は何かにつけて彼との話を聞きたがった。
「すごいよね。だってまだキスもしてないんでしょ?」
「やば!」
 手を叩いて笑う千佳に、おもちゃじゃないぞという言葉が脳裏をよぎった。
「むずかしいか、あのトムが相手じゃね」
 2人に賢太の写真を見せたとき、いかにも草食系男子という見た目をしていると笑われた。そのとき怜愛が「トムソンガゼルの目だ」と発言して以来、賢太は2人に不名誉なあだ名で呼ばれている。
「まあ、自分たちのペースで進めばいいんじゃない?」
「……分かってるよ」
 私はそう思っているのに、それを茶化し続けているのは怜愛たちじゃないか。そんな気持ちが声に乗ってしまったようで、2人は顔を見合わせた。それから怜愛が私を見て、短く鋭い溜め息をついた。
「それでいいんだ」
「何が?」
「このまま何もないままで」
 思わず目を伏せた。イラつくのは、足踏みをしてしまっている自覚があるからだと思う。
「ま、いいけどさ」
 怜愛は白けた顔をして口の端だけで笑うと、ディオールのバッグから取り出したスマホを漠然と見つめていた。
 美人で、明るくて、真面目過ぎない愛嬌のある怜愛は、同性の私から見ても魅力的な女性だ。けれど時折、冷やした金属のような空気を身にまとうことがあって、そんな時、私は彼女に何も声をかけられなくなった。
「でもさ、逆に3年もキスしなかったらさ、こういうきっかけがないとむずいよね」
 先ほどからタイミングをうかがっている様子だった千佳が、恐る恐る言葉を繋いだ。
「チャンスじゃん、がんばんなよ」
「うん……ありがとう」
 怜愛が、ぼふ、と音を立ててバッグにスマホを投げ入れた。
「映画観た後、またそれイチから読み直す、みたいなのはやめなね」
 無邪気に微笑む怜愛の瞳は、どこまでも光を吸い込んだ深い黒色をしていた。もしかしたら彼女は、私自身が抑え込んでいる気持ちを代弁してくれているのかもしれない。自己責任の街の中を、胸を張って歩いてみたい。そう願いながらも、いつも私は肩まで思い出に浸かって、彼女たちの背中を眺めて生きているのだ。
 
 
 
「めちゃくちゃ良かったね〜」
 空っぽになったポップコーンカップをゴミ箱に捨てると、私はいよいよ我慢できなくなって口を開いた。
新山にいやまさくら、新人だけど可愛いし演技上手いね。後やっぱり藤井ふじい良治りょうじかっこいい……」
「わかる、キャスト良かった。藤井良治って良い歳の取り方してるよな」
 賢太の声もいつもより明るさを帯びていた。私はまた、スクリーンに映し出されていた光景に思いを馳せた。
「新山桜いいなぁ、演技上でも藤井良治とキスできるなら……」
 私がそれまで夢のようにぼんやりとさせていた欲望が輪郭を手に入れて、胸の中を圧迫していた。それと同時に、私は思い知らされていた。あの本を読んでいるとき、私は主人公に賢太を投影させていたけれど、主人公は賢太ではなかった。彼は紛れもなく藤井良治で、藤井良治が新山桜と出会ったからこそ、恋は自動的に燃え上がったのだ。
 長い下りのエスカレーターの先に、怜愛たちの顔が浮かんだ。新山桜ではない私は、自分で火をつけるしかないのだ。
 映画館のそばの喫茶店を2人で出て、駅舎が少しずつ大きくなってきたとき、ふと何かに背中を押されたように声が出た。
「もう少し良いかな」
 12月は始まったばかりなのに、もう夜はきらびやかだった。私の声に顔を向けた賢太の眼鏡も、浮かれた街の景色をキラキラと反射させていた。街路樹の脇に木製のベンチを見つけて、そこに並んで座った。おしりに伝わる冷気に、気を抜くなと言われている気がした。かすかに開けた口の中から、煙のように濃い白色の息が漏れた。
「今日は本当にありがとう、あの本もらった時からすごく気に入ってて何回も読んでたから……」
 私の言葉に、賢太が口を開いた。何かを返しているのが、唇の動きで分かった。急激に世界が縮んで、私たち以外の全てが張りぼてになったような気がした。子供の頃、湯船に頭まで潜ったときの、圧迫感のある温もりがよみがえる。そうだ、どこか似ている。あの感覚に。こんなに息苦しいのに、誰よりも自由だった。
 私はキスをした。この感情にハンコを押すように、軽く、しっかりとしたキスをした。賢太の唇は冷たくて、温かかった。時間が一瞬止まって、またすぐに動き出した。彼の中を流れる血液が、息をすることを思い出させて、私はあわてて顔を離した。波打つような余韻が全身にまとわりついていた。
「帰ろう」
 私はそれだけ言うと立ち上がり、もう歩き始めていた。かろうじて、自分が正気でないことだけは分かった。うまく動かせなくなった体を、とにかく前へと進めることに集中した。かかとに伝わるリズムに心が追いつけなくなって足がもつれる。幸せはこんなにも大きくて持ち運びにくいものなのだと、この日、私は初めて知った。
 
 
 
《あけましておめでとう! 忙しそうだね がんばって!》
 
 年明けと同時に私が送ったメッセージに既読がついてから、賢太のトーク画面は全く動かなくなった。あれから1ヶ月以上経ったのに、私はまだ彼と会えていなかった。
 年末にかけて大学が忙しくなってしまったらしく、賢太の事務的な謝罪連絡も、次第にまばらになっていった。クリスマスイブも行く当てがなくなりそうだったので、シフトを入れられることを店長に伝えたら、えらく感謝されてしまった。
 年末に帰省した南相馬市の風は冷たいだけでなく、痛みを伴っていた。上京してから1年も経っていないのに、妙に街並みが古ぼけて見えて、まるで記憶の中を探検しているかのような気分になった。ふと、このまま賢太も記憶の一部になってしまいそうに感じて、少し怖くなった。
 実家に到着した途端、弟の柊真しゅうまが玄関まで走ってきて、おみやげをせがんだ。その声が記憶よりずっと低くなっていて驚いた。中学2年生とはそういう年頃かと納得しつつ、昔の人が時間を川で例えた気持ちが分かった気がした。時の流れというものは、思っているよりずっと速くて重たいものなのだ。
 大晦日の夜、これから訪れる新年がそんな不安を取り去ってくれることを願って、心の中のカウントダウンがゼロを迎えると同時に、彼にメッセージを送った。
 果たして不安は年を越して、こうして東京までついて来てしまった。
 信号が青に変わって、ダッフルコートのゆるいポケットにスマホを突っ込んだところで、すぐ左から「おはよ」と声を掛けられた。振り向くと、眠たい笑顔を浮かべた怜愛が立っていた。私も挨拶を返して、一緒に横断歩道を渡る。
「あの後帰れたの?」
「いや、カラオケ行った」
 空に吐き捨てるようにつぶやく怜愛の横顔に、自分から進んで行ったくせにと思う。
 昨日はサークルの新年会だった。普段は1次会にしか参加しない私が、体調不良で欠席した忘年会の埋め合わせかとばかりに、なぜか2次会まで巻き込まれることになった。アルコールを口にせずに2次会の雰囲気に馴染むのは大変だった。その店を出たタイミングで駅に向かう私に、怜愛たちが「じゃあね」と手を振っていた。既に11時をとっくに過ぎていたけれど、みんなは自分たちの住みかはここだという顔をしていた。
「カラオケって、千佳も行ったんだよね?」
「うん、朝まで一緒だった」
 千佳は朝まで飲んだ後、必ずと言っていいほど午前の授業をすっぽかす。私が心配そうにすると、怜愛は軽く笑いながら「まあしょうがないよね」と言った。考えてみれば、怜愛の方がおかしいのかもしれない。千佳と同じ朝を迎えたはずなのに、ちょっと夜ふかしをした程度の様子で私の隣を平然と歩いている。生き物として異常なのは怜愛の方だと思う。
「一応シャワー浴びた後、千佳に電話してみたの。寝るなよーって言おうと思って」
「優しいじゃん」
「でもダメだった。今も音信不通だもん」
 音信不通という言葉が変に引っ掛かって、喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。突然賢太のことを思い出してしまったので、体がびっくりしているようだった。
「どうしたの? 千佳と何かあった?」
「あ、ごめん、じゃなくて」
 私は賢太からしばらく連絡が返って来ていないことを怜愛に伝えた。私は先月も、彼となかなか会えないでいることを相談していた。その時の怜愛は、ちゃんと話を聞いているのかも不安になるくらい楽観的な様子だったけれど、正月から10日も音信不通となると、さすがに違和感を抱いているようだった。
「やっぱりさ……」
 不安が口をついて漏れた。
「キスなんて、しなければよかったのかな」
 少し意表を突かれた表情を浮かべた怜愛は、やがてにやりとした微笑みを浮かべながら軽く肩をすくめた。
「そんなに凄いキスしたの?」
 瞬間的に言葉に詰まった後、なんとか「ちょっと!」と抗議を口に出した。それに構わず、怜愛は続けて軽口をたたいた。
「友紀に食べられると思って怖くなっちゃったのかな。トムだから」
「もう!」
 喉を抜ける強い息が、冷えた体を無理やりに前進させた。怜愛は私の不安を紛らわせようとしているのだろうか。けれど逆にそれは、怜愛から見てもそれが異常事態であることの証明のように思えた。泡を立てながら広がる不安と裏腹に、怜愛がまだ白さを残す空に向かって大きなあくびを放った。
 
 
 
 私は去年の5月から洋菓子店・ネージュフォンダンテでバイトをしている。バイト募集サイトでサークルの活動日にシフトが入る可能性がない職場を探していたところ、この店が目に留まった。毎週月曜日定休。店名の「neige fondante」を調べると、どうやらフランス語らしかった。「雪解け」という意味だと知って、故郷の風景が浮かんだ。写真に写った素朴な内装には、どこか落ち着く雰囲気が漂っていた。ここで働いてみたいと思った。
 住所を確認すると、「神泉駅から徒歩2分」と記載されていた。通学ルートの間で探していたつもりだったのに、どういうわけか大学のさらに先の駅だった。でも、もう私は気に入ってしまっていた。すこし迷ったけれど、考えているうちに、上京したての私にとって渋谷に近い立地は魅力的かもしれないと思い始めた。そもそも採用されるかどうかも分からないし、見学気分で受けるだけ受けてみようと、店に連絡をした。
 数日後、私は面接のためにネージュフォンダンテに向かった。店内は写真から思い浮かべていたのより一回り小さかったけれど、雰囲気はイメージ通りだった。
 カウンターに立っていた女性店員に面接に来たことを伝えると、私に少し待つように言ってから厨房の方に引っ込んだ。数十秒後、奥から彼女と一緒に出てきたのは、店の雰囲気とは少々異なる印象の男性だった。年齢は40代手前くらいで、がっしりとした男らしい体つき。口ひげとあごひげを整えて生やしている。男性は、「店長の野田のだです」と自己紹介した。
 初めは少し引け目を感じてしまったけれど、面接が進むにつれてそんな不安は消えていった。店長の気負いがない言葉や仕草からは、自信に裏打ちされた自然な余裕が感じられた。私にとって、彼は東京の大人の象徴のような人だった。面接が終わって、店長が厨房に繋がるドアを開けた。甘いチョコレートの香りが飛び込んできて、ほどけた心と絡まった。
 
 
 
 クリスマスシーズンが去って少しだけ落ち着きを取り戻したネージュフォンダンテは、それでも新年らしい慌ただしさに包まれていた。閉店時間が近づくにつれてようやく客足が途切れてきたので、私は早めに閉店作業を始めることにした。陳列されている商品を整理し、見た目を整える。窓際の棚に並ぶチョコクッキーの数が減っているのが目に入った。整理しようと箱を裏返すと、賞味期限が3週間を切ったものがあった。このチョコクッキーは箱が可愛らしくて、うちの商品の中では値段も手ごろなので、安定した人気がある。夏に一度だけ廃棄されたものを店長からもらったことがある。ココアパウダーで覆われた小ぶりのクッキーで、口どけが良くしっとりとした食感。口内に広がるチョコレートの風味と、鼻をくすぐるシナモンの香りが印象的だった。1人で堪能するのがなんだか申し訳なくなって、翌日大学に持って行って友だちと一緒に味わった。中でも怜愛はこれに「幸せクッキー」と安直な名前をつけて、後日店まで買い求めに来てくれたこともあった。
 年末年始の休業を挟んだせいだろうか。もったいない。きっとまた店長は持って帰っていいと言ってくれるだろう。でも私がクッキーなら、店員に食べられて一生を終えるのは悲しいと思う。
 店頭のドアが開いて、スーツ姿の男性が姿を現した。先ほど店長宛てに来店して、私が裏に通した男性だった。たしか、なんとか産業の、ウラベ、と名乗っていた。心なしか疲れた顔をしている。サラリーマンはこんな時間に打ち合わせをすることもあるのだなと感心していると、ウラベさんがにっこりと笑いかけてきた。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました。今日はこれで終わりですか?」
「いや、まあちょっとね」
 ウラベさんは少しだけバツの悪そうな顔をした。
「えっ、もう夜なのにまだお仕事あるんですね」
 思わず聞いてしまった。私が将来身を投じることになる社会は、こんなにも厳しいものなのだろうかと不安になった。
「いえ、友達と約束してるんですよ」
 ホッとした。「そうなんですね」と変に感情移入した声を出してしまって、なんだか気まずい。視線をそらすと、ちょうど手に持っていた廃棄のクッキーが目についた。
「あ、じゃあこれよかったら、おみやげにどうぞ!」
 胸の高さまでクッキーを持ち上げて、ウラベさんに差し出した。ウラベさんは意表を突かれて一瞬身じろいだようだった。
「賞味期限が近づいてて、廃棄にしないと駄目なんです。でもまだ3週間近くあるので!」
 言いながら、怜愛の顔が浮かんだ。持って帰ってあげればよかったかな。喜んだだろうな。そもそも店長に断りもなく勝手に渡してしまっていいのだろうか。そう逡巡しても、もう遅かった。
「えっ、いいんですか、ありがとうございます!」
 ウラベさんは、はにかむような笑顔を浮かべながら、私の手から小箱を受け取った。親指の腹で装飾を優しく撫でる動きを眺めているうちに、早まったことをした後悔が薄れていった。私は改めて口角を引っ張り上げて、自己嫌悪をごまかす。
「店長には内緒ですよ!」
 クッキーから目を離したウラベさんは、まっすぐ私を見て「もちろん」と微笑んだ。
 店頭のドアを施錠して、レジの精算を済ませたところで、背後のドアから店長が現れた。私は挨拶をしてから、クッキーのことを思い出した。やはり言わないわけにはいかないと思い、店長の横顔に声をかけた。
「あの、すみません……」
「ん?」
「チョコクッキーが1つ廃棄になったんですけど、ウラベさんにあげちゃいました」
 店長はわずかに眉を寄せて「ウラベ?」とつぶやいた。それから「ああ」という声と共に私に微笑んだ。
「白川さんが持って帰ればよかったのに」
 半分予想はしていたけれど、店長は私を咎めるつもりはないようだった。
「いえ、前にも頂いたので。勝手なことしてすみません」
「別にいいよ。どうせ処分するものだし。クリスマスにシフト入ってもらっておいて、そんな細かいこと言えないよ」
「そんな、暇だっただけです」
 私の返事を聞いて、店長が少し不思議そうな顔をした。しまった。私は何かの折に自分に恋人がいることを店長に話したことを思い出した。何か訊かれても上手く答えられる自信がなかった。けれど店長は何も訊かずにショーケースの後ろにしゃがみ込んだ。
「忙しいときは言ってね」
 あっけらかんとそう言うと、店長は売れ残りのオペラを手早く紙箱に入れて、私に差し出した。
「いつもありがとう、お疲れ様」
 
 
 
 2月が近づくにつれて冬の寒さは一層その存在感を増した。高井戸駅からアパートまでの十数分の道のりで体が冷え切ってしまったのか、お風呂がやけに熱く感じて、設定温度を少し下げた。網ガラスの窓から流れ込む冷たい風がエアコンで暖めた部屋に侵入し、ベッドの中まで届く。私は身を寄せるように羽毛布団にくるまり、寒さに耐えた。アパートは数年前にリノベーション工事をして小綺麗になったというけれど、実際に暮らしてみると築35年の歴史を感じることも多い。気温だけを考えれば故郷の方が低いはずなのに、こんなにも凍える思いをするなんて。寒さというものは残酷で、時々、心までも冷やしていく。シーリングライトが煌々と照らす室内の景色も、どこか白々しく感じられた。
 賢太と最後に会ってから、本を8冊読んで、そのうち3冊は読了後におすすめするLINEを送った。12月に送った2冊については反応があったけれど、最後の1冊にはもう1週間以上も既読すらついていない。千佳は私に、今の状態をつき合っているとは言えないから、そろそろ怒ってもいいのではないかと言っていた。そうするべきなのだろうか。何か違う気がした。私はただ怖いのだ。4年近くもの間、賢太の恋人として生きていく中で、少しずつでも近づけていたと思っていた彼の心は、私の勝手な妄想に過ぎなかったのではないか。そんな恐怖がだんだんと実感を伴ってのしかかってきている。怒ることで、この実感をより強くしてしまう予感がした。
 ベッドの脇に置いた本棚に視線を泳がせると、かすれたえんじ色の文庫本に目が留まった。「唄う空蝉」。あの映画の日を思い出した。ただ待っていていいのは、新山桜だけかもしれない。
 
《大丈夫? 何かあったなら教えて》
 
 それだけを打ち込んで、送信ボタンを押した。それが精一杯だった。伝わるだろうか。やっぱりやめておくべきだっただろうか。脈拍がひっそりと早まっていく。それと裏腹に、私はこんなことに不安を抱いてしまうほど彼との繋がりに自信がないのだと、冷ややかに自分を見つめてしまう私もいて、何もかもが嫌になった。
 音もなく既読がついた。同時に、驚きと、喜びと、大きな後悔が押し寄せる。肩のあたりに力が入った。画面から目を離せない。彼は今どんな顔をして、この画面を見ているのだろう。全く想像がつかなかった。色んな思いが交錯して、結局、何も考えていないような濁った空白の時間が過ぎた後、賢太から1ヶ月ぶりのメッセージが届いた。
 脳が、読むことを拒否した。でも眼球は凍りついたように固まって、それを許さなかった。乾いた白い吹き出しが画面の中に、じっと貼りついていた。
 
《本当にごめん、別れよう》
 
 自分自身を保っていた何かに手を離されて、どこまでも落下した。深い闇に落ちながら、私は透明になっていった。たった今まで存在していたはずの世界が急速に縮んだ。痛みが体中をかけ巡ってから、鼻のつけ根に噛みついた。本当はずっと知っていて、無理矢理に意識の奥へ仕舞っていたものが、むき出しにされた気がした。
 どうしよう。どうにかしないと。
 震える手で、なんとか通話ボタンを押した。間抜けなコール音がしばらく響いて、突然切れた。画面には「応答なし」と表示されていた。もう一度かける。同じようにコール音の後「応答なし」と出る。ほとんど無意識にLINEから電話アプリに切り替えて、賢太へ発信する。
「おかけになった電話をお呼びしましたが、お出になりません」
 コール音もなく、いきなり自動音声が鼓膜を揺らした。変だ。呼吸がおかしい。気づけば視界は形を失って曖昧な色に染められていた。まぶたを閉じると、賢太の顔が蜃気楼のように頼りなく揺らめいては消えていく。苦しい。私はこれからどこへ向かうのだろう。何も分からない。分かりたくない。苦しい。羽毛布団を握り締めて、背中を限界まで丸めた。心がバラバラにはじけ飛んでしまいそうになるのを必死で抑え込む。そうしてこの苦しみを時間が連れ出してくれるのを待ち続けた。いつからか声帯が震えていた。震えは大きくなり、全身を揺らした。とても寒くて長い夜だった。

つづく

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