哲学・日記・メモ「死は平等。しかし死に方は不平等。だから私は」
「死は平等。しかし死に方は不平等。だから私は」
死は平等だ。
しかし死に方は平等ではない。
楽な死に方もあれば苦しみ悲惨な死に方もある。
死に方の不平等とは、死に方の、想像しうる限りでの多様性の事でもある。
ところで、社会における善悪は相対的で、善は悪にもなるし悪は善にもなる。それはつまり社会の規範が地域や時代や状況によって常に変化するものであるからそうなのだろう。
しかしでは「快と苦」はどうなのか?「快と苦」は社会の規範ではなく、つまり地域や時代や状況がどう変わろうともそれを感受するものにとっての不変で普遍な快と苦なのであり、それは「現実にそこに在るその人=実存」の、快苦のクオリアとして、どの地域でもどの時代でも、どの時代のどんな状況においても、実存のクオリアとして「不変で普遍」なものであろう。
私はこの「実存の快苦の不変・普遍性」から「善悪の不変・普遍」を導くことが出来るのではないかと考える。これは普遍から個別(実存)を規定することではなくて、個別(実存)から普遍に至る道であろう(カント『判断力批判』における美の様な)。
そうしてそれは次のような命題に表わすことが出来るだろう。
即ち、
「悪とはその人が苦痛を感じると知っていてそれをなす事であり、善とはその逆である」。
そしてこの命題は単に実存相互の善悪の命題であるだけではなく、古今東西の普遍の対象(神や自然やリビドーでもいいし、相対や関係の真実である空の普遍でもいい)に対して善悪を突き付け弾劾に導く命題でもあるのだろう。あらゆる普遍はこの特殊な実存である私に快を与えるだけではなく苦も与えるが、しかしそれは相殺できるようなものではないからだ。ある人にはとんでもない快楽を与え、その補完としてとんでもない苦痛を与える。そういう普遍の残酷さを鑑みるにそれは悪としか言いようがない。
具体的に言いたいと思う。
私が勤めていた老人施設にMさんと言うおばあさんがいました。認知症で寝たきり。声を出すことはなく、表情としぐさでコミュニケーションが辛うじてとれるという方でしたが、とても穏やかで優しい雰囲気の方でありました。認知症で寝たきりですが、家族も良く面会に来られ、皆から愛される良い母であったと聞いていました。その方が淡の絡まりがひどくなり、施設から病院に搬送されやがてなくなりました。病院の話では死因は窒息死でした。夜間淡が徐々に絡まり、じわじわと喉を詰まらせ、やがて呼吸が出来なくなって、身動きも取れず助けも呼べず、病室の白い天井を最後に見ながら苦しんで亡くなったのでした。
これまでどんな幸せな人生であっても、最後の最後でこんな苦痛に満ちた残酷な死に方で締めくくられてしまう。これを普遍の眼からみたら単にこれまでの幸せが最後の苦痛で相殺されて0になったにすぎないのであろうが、この快苦の振幅の幅を鑑みるとその残酷さは際立ちます。1の快楽を与えるから1の苦痛で相殺せよ、ならまあよいが、1000の幸福を与えるから1000の拷問を受けよといわれてその人生を選ぶものはいない。しかし普遍は、それを実存と言う個別に、多様性と言う名の振幅を与えて、強いるのだ。
だから私は、普遍でも真理でも関係性でも何でもいい、個別な実存を多様な振幅に分化せしめ、それを自らのうちに包摂して再回収する、普遍であり真理であり関係性であり・・・というような「何か」に対して弾劾をせざるを得ない。
だから、私にはきっと、何かそういう大いなるものに対して祈ることは、到底出来そうにない。
追記
死に方も生き方も自ら選んだと言えず、結局何か大きなもの(語りえない何か)とともに在るのだと悟ったとき、諦念とともにそこに身を委ねる信仰は多い気がします。そして日本ではそこからあるがままを受けいれる「じねん」に行ってしまう。しかし私はやはりそれが出来なくて「その何か大きなもの≒語りえない何か」に対し「弾劾」の姿勢を示したいし、「弾劾」が言い過ぎならば「問いかけ」続けたいと思うのです。信仰と哲学の違いかもしれません。私達は死に方も選べないし生き方も選べない。そしてさらに言えば、生まれるという事も自ら選んだわけでもない。すべては結局成るがままであるがままのなのかもしれません。しかしその代償として、想像しうる限りの途轍もなく残酷な死に方が、確かに生じているのだとしたら、私の弾劾は故無いものではない気がします。「死は平等」と言う言葉がしばしば常套句として膾炙されることで、「死に方の不平等」が語られず、そしてその背後に展開されるべき哲学が顧みられないでいるのではないでしょうか 。
2021年10月6日 岡村正敏