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哲学・日記・メモ「口笛を吹く」

「口笛を吹く」

時たまに口笛を吹きたくなる。
そんな時は不思議と必ず、車を運転している時なのである。
それは何故だろうと思う。
それは車内に私一人、しかいないからではないか?
誰にも「聞かれない」からである。
しかし本当にそうだろうか。
誰にも聞かれたくなかったら山の中や河川敷でもいいのではないか。
でも口笛を吹くために山に入ったり河川敷に赴くのは面倒だ。何故ならば口笛を吹きたくなる時は、突然に吹きたくなるのだから、その都度山に行ったり河原に行けるわけでもなく、行ったとしてもきっと、向かう途中で口笛を吹くなんてどうでもいいことになってしまうだろうから。それに誰もいないから、と山中で口笛をぴゅーぴゅーやっていたら、ハイキングしてる人やキノコ採りをしてる方にばったり会って、ジロリと見られたりクスリと笑われてしまうかもしれない。
しかし車内は密閉されているのだ。私独りなのだ。私独り、きっとこの事が重要なのだとおもう。正確には音は少しは漏れるだろうが、走行しながら吹いているから気が付くものはまずいないのだから、私を除いて誰も私が口笛を吹いているなんて思わないだろう。

そんなわけで時たま私は車を運転しながらぴゅーぴゅーやっているのであるが、私がぴゅーぴゅーしている時、私は口笛を吹いているのだろうか。それとも口笛を聴いているのだろうか。そして「あれ?この音うまく出せないな」とか「今の気分はこんな曲だろうな」等と自分の演奏を批評しているのだろうか?

きっとその総てである。

私がほぼ閉ざされた車内で口笛を吹く時、誰かが聞いている事を求めてはいない。むしろ誰かに聴かれないために、誰かに聴かせるという意識を自ら排するために「車内」と言うシチュエーションを求めている。

「誰か」に向けた口笛ではないのだ。

しかも口笛を吹く、と言う中には「奏者・聴者・評者」が私の中に並存している(というよりこの三位一体が私なのかもしれない)。「奏する他人」も「聴く他人」も「評する他人」もなく、私がその総てなのだから、他人はおらず、他人とのコミュニケーションもなく、そもそもそれを志向していない。私が口笛を吹く時とは、私が運転する、ほぼ他人とのコミュニケーションが成立しない隔絶され閉ざされた「車内」にて、車内の環境(それは刻々と変化する車窓の風景も含まれる)との、「非人格的な何か」を志向する対話の手段として「吹く」のである。

ところでアート業界とはそれが商業フィールド、学術フィールドであるにかかわらず、どちらも「分業化」がなされている。「作家」がいて「享受者」がいて「評者」がいるからである。こういった分業化はアダムズミスの『国富論』的であるし、マルクスの疎外論にも通じるだろう。
作家とは言うまい。ただ「ものを創作しなくては己を保てない者」がスミス的分業によって、アート業界の中でマルクス的疎外を生じさせている。この事は確かであるように思える。山下清は式部による「発見」によってアート業界の嬰児となたが、同時にアート業界に染まってしまった。これはそのまま音楽業界でのシャグスに重ね合わせる事も出来るだろう。

「アウトサイダーアート・ミュージック」と言う「ジャンル」は、分業化以前の創作の完全性を疎外する。しかもこの疎外は外部からの疎外ではなく、作家自らが自己疎外を臨むという、アートワールドや音楽業界への自ら望んだ自己疎外を生じさせてもいる。私が口笛を無性に吹きたくなる時とは、あなたの為にでもなく地域の為にでもなく社会の為にでもない。そうならないよう、その意識・志向が混入しないよう、だから私は「私が運転する車内」でしか口笛を吹かないのだろう。

2023年12月13日岡村

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