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片山健『えんそく』が示したもの

片山健『えんそく』が示したもの

なんだこりゃ?!

これが第一印象である。
何故って、この絵本はこんな風に始まるのだから。

「えんそくにいきました。あさ早く私たちは学校から富士山に乗りました」

何と!富士山に「登る」のではなくて「乗る」のである。
しかも富士山も乗っている!
何に?
大きな雲に!
そんな大きな「富士雲」に「乗って」子供たちが遠足にいくのだから、「なんだこりゃ?!」なのである。

子供たちを乗せた「富士雲」は筋斗雲のように速い、速い!
びゅーんと飛んで、
「海を超えて古い運河のある大きな街にやってき」ます。
そして、
「みわたすかぎりの大平原を富士山は汽車や馬とかけっこし」て、
「うつくしい湖でお弁当をたべ」、
「またうみをこえ」るとそこは熱帯雨林のような「一年中夏休み」な場所だったのでした。
そのあとに訪れた「カーニバルの街では富士山もおどったり宙返りしたり」します。
そうして「私」は「富士山に酔って気持ち悪くなって」嘔吐してしまうのです。
そして・・・「私」は・・・日暮れたハワイの砂浜を歩いている。
富士雲に乗った仲間は黄昏の彼方へ去っていく。
私を置いて消えていくのでした。

うーん・・・読み終えてもやっぱり・・・なんだこりゃ。

でも、暫くすると私の感想は「なんだこりゃ」から「こわいな」になったのでした。
「あさ早く私たちは学校から富士山に乗りました」とは、日出る国の赤子として、知らず、生まれ落ちてしまっていた暗喩であるのかもしれない。
「海を超えて古い運河のある大きな街にやってきました」とは日本海を超えて古の大陸への上陸であろうし、
「みわたすかぎりの大平原を富士山は汽車や馬とかけっこしました」のくだりは、どうしても「柳条湖事件」を思い浮かべてしまうのである。かけっこの競い合いの背後に立つ「仏様」は戦争に協力した仏教、こと浄土真宗を表しているのだろうか。
「うつくしい湖」では、湖の真ん中でお弁当を食べる日本の子供たちを遠巻きに囲んで、それを写生する子供たちが描かれているのだが、それは、満州国の五族共和の理想の、「写生」と言う名の教化かもしれない、等と思ったりする。またそのあと子供たちが訪れる「一年中夏休み」な熱帯雨林の共栄は、大東亜共栄圏の理想なのかな、とも。しかしよく見ると富士雲から熱帯の地に降りた子供たちは、巨大なカエルに食べられたり病に倒れたりしているようにも見えるのである。
そうなれば当然「カーニバルの町」の狂乱は真珠湾攻撃を意味しているのだろう。ここから「富士雲」の進撃は一転してまさにひっくり返えるのだから。血を吐くように溶岩をぶちまけてのたうって、ニューヨークの摩天楼を思わせるビルの中を、涙のような雨を降らせながら逃げ去っていく「富士雲」。
しかし、雲に乗った子供たちの中で「私」だけが嘔吐しているのは何故だろうか。そして、嘔吐した「私」は、他の子供たちと一緒に雲の向こうの世界に旅立っていく事が出来ないのである。
そうして・・・「私」は独り取り残されて・・・即ち生き残った「私=片山健」はとぼとぼと日暮れたハワイの海岸を歩いていくのであった。

片山健はかつてインタビューでこう語っていた。
「子どもができたころからか、戦争中、五歳ぐらいまでの記憶の断片がバーッと出てきて、それが実に至福の記憶なんですね。自分にもこんな幸せな大事にされた時があったんだって気づいたらすごく楽に肯定的にもなれてね。まあ、空襲なんかがそんなにないところにいたからそんなこと言えるんだろうけど。部屋にぽつんと一人でいると、弟かなんかもいたかもしれないんだけど、だれかがパッと灯りを消す。そしてたぶん母親だと思うんだけど、闇に包まれた中で、だれかが頭の上にぼあーっとズキンをかぶせてくれる。それから近所のおばさんたちと防空濠に入ってね、和気あいあい赤土と女性たちに二重に庇護されてたわけですね。その赤土の壁に入口付近の菊のシルエットが探照灯の青い光でグルリグルリと回り燈籠みたいにきれいでね。赤土の穴の中にじーっとしているのはうれしかったですね。それに闇の中でだれかがあんなふうにズキンをかぶせてくれた、あの記憶だけでもまだまだだいぶ生きられる……」
(福音館書店HP ふくふく本棚第3回)

片山健の戦中の記憶は、「戦争とは無関係な子供らしい無垢な好奇心」に満ちていたのである。然るに「無垢な好奇心」とは、換言すれば「清き明き心」に他ならない。
すると、子どもの片山健は戦争の何たるかを知らぬ無垢な心で、無垢な「清き明き心」のまま死んでいった幼き同期の中で、自分だけが生き残ってしまった咎を抱いてこの『えんそく』を制作したのではないか。最後のページでとぼとぼぼと一人歩く「私」の心情はそういたサバイバーズギルトの咎を語っているのである・・・しかし本当にそうか?私はもっと別な何かを示そうとしているのではないか、と思えてしまってならない。

と言うのも、この絵本は1994年に制作されているからだ。
1990年代の絵本の動向について、安曇野ちひろ美術館で開催された「日本の絵本100年の歩み」では次のように記されている。

「1990年4月、絵本画家たちが中心となり絵本ジャーナル『PEE(ピー) BOO(ブー)』が創刊されました。太田大八は発刊のことばとして次のように記している『日本には、毎月おびただしい量の絵本が出版されています。またここ20年来、絵本作家や絵本のイラストレーターを志向する人の数も増加しています。しかし、それらの現象は必ずしも絵本の質の向上につながるものではなく、絵本の販売競争は、逆に、迎合、追随、媚態、といった後退の傾向を数多く見せています』」
(安曇野ちひろ美術館HP 日本の絵本100年の歩み)

つまり絵本作家達が、自分たちを取り巻く絵本業界への危機感を強く持ち、問題を提起し作家の当事者性を根拠にそこへコミットメントしていった時代が1990年代であったのだ。絵本と絵本作家が、自己批評性に開眼する時代、といってもよいかもしれない。1994年にこの大型絵本『えんそく』が制作された事を、そのような「メタ」の視点から考えるならば、この『えんそく』という作品は単純に片山健のサバイバーズギルトの心情の吐露などではないはずである。

『えんそく』では「清き明き心の象徴である子供たち」が、「大日本帝国の象徴としての富士雲」に乗って「遠足と言う名の戦争」にでかけたのだった。そして子供たちは、その戦争の何たるかも知らぬまま目の前で起こる新奇な事象に目を輝かせたのだった。それは例えば「大陸への侵攻」は「海をこえた大きな街」として映っただろうし、「大東亜共栄圏」は「熱帯の多様な動物達とのあそび」に映ったのだろう。ちょうどインタビューで片山健が語っていた、防空壕の体験が至福のひと時として記憶されていたように、片山健と同世代の子供たちにとって戦争は、豊かに彩られた世界として映えていた筈である。
しかしそのような純粋無垢さとは、これまで絵本の本質とされてきた世界の原初性、あるいは絵本作家が志向してきたアルカディアとぴったりと重なるものでもあるだろう。絵本作家は、絵本の無垢な原初性が、実は無垢とは全く無縁な計画性と作為に「乗せられていた(まさに富士雲に乗せられたように)」事を実はよく知らなかったし、知ってはいてもまともに向き合おうとはしなかったのではなかったか。この姿勢に『えんそく』の「私」は「嘔吐」してしまうのだ。そして知ってしまった故に、無垢な「赤子」たる子供たちとともに雲の彼方に逝くことが出来なかったのだ。示されているのは、つまり、これまで絵本作家が、「こどもの純粋さ」「アルカディア」「原初性」「あそび」という絵本のメインストリームを信じてやまず、ついぞ疑い得なかったことに対する、問題の提起である。この提起はそして、絵本の自己批評性と言う新たな地平を、暗示するものでもあるし、その後の多様な絵本の在り方を期待するものである。
ナンセンス絵本をも超えて、絵本そのものの在り方の変容にも射程を広げていくような、そのような時代の、自己批評的な空気そのものを描いた作品が『えんそく』であったのだ、と私は考えたいのである。

2023年2月20日 

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