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哲学・日記・メモ「対話において問いを深めるとはどういうことか?」

対話において問いを深めるとはどういうことか?

問いを深めるとはどういう事か?
もしも、論理的に問いを深めるのならばそれは、論理的な間違いや至らなさを指摘し正しあうという事に尽きるのではないだろうか?しかしそれは何だかつまらない。既存の論理学に如何に整合を求めるか、と言う志向であるのだから。それは論理に適った必然でしかないが、これも探究であるし深まりでもあるのだろうとは思います。

しかしやはりそれは「問いを深める」という事の本質をついてはいないように思います。
「問いを深める」には偶然性が必要かな、と思うからであります。
だから対話の場において時として突拍子もない意見が出る事は、それを良しとしない方がいる事も承知したうえで、私は大切であるしそのような意見を排除したくはありません。

と言うのも、「問う事そのもの」が「偶然性の位置にある」し、つまり「突拍子もない」のではないでしょうか?何か違うような気がする。と言うこの「問い」のポジションこそが既存の後の定義やその定義の整合性としての論理的整合性に異を唱えるものである気がするからです。もしそうでなければ定義の整合性に甘んじているだけである気がしています。そしてそれを的確に語るのみであるでしょう。そこには問いはありません。すると「問を深めるとは問うこと自体であり」、それは「偶然との邂逅」であって、論理的思考にしたらイレギュラーな飛躍でもあると思います。それを受け入れることが出来るか否か。対話に求められるのは、その「受けいれ」の「技術・技法・方法」であるのではないのでしょうか。

2021年11月 岡村正敏

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