哲学・日記・メモ 「生活・暮らし・存在」
「生活」が生きる為の方法であるならば、「暮らし」は生活と信仰の一致を目指す。そういう語感を纏っている。しかし「在り方」については、生活でも暮らしでもない純粋な「問い」の実践としてそもそもの始まりを問い続ける姿勢につながっていくものであろう。そしてそもそもの始まりに対する問いは、そもそもの始まりに回帰する事と異なる。という事を意味してもいる。そして、「生活」が「生きる為の方法」の模索であり「暮らし」が「より善い生活の道」であるとすれば、「在り方」とは「問いそのものの在り方」となるだろう。そしてそれは「生活」や「暮らし」の様な世界の内部にかかずらう事や、世界との和合にかかずらう事ではなく、あくまで世界そのものと対峙してしまっているという事実に向かい合う姿勢である。だからそれは「世界の内部で良く生活する事」や、「世界と共に善く暮らす事」とは事なっている。それは「世界そのものと私が対峙して在るというその事」に最もな関心を寄せる問いであり、その終局において「世界を終わらせる問い」となるものであるのではないか、と思います。
2021年6月6日 岡村正敏