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雑考・日記・メモ 「『シークレット・カメラ』」

『シークレット・カメラ』

『シークレット・カメラ』                      作: フランク・ダバ・スミス
訳: 落合恵子
写真: メンデル・グロスマン
出版社: BL出版  2001年

おそらく1939年頃に撮影された写真。                 写真の中でじっとこちらを眼差すこの少年は「今はもういない」。    1939年と言えば生きていたら100歳近いので当然なのですが、そうではなく、この写真に写された数日後、このユダヤの少年はガス室で最後を遂げることなるのだから。しかしこの写真は、戦争はいけないとかそういう主張だけに終わるのではなく、戦争批判以上のものを語らなければいけないような気持ちを私に喚起させて止みません。それは「かつてあり今はもうない」と言う言葉に含まれている「そういう気持ち」に他ならない。

この「少年」も「ガス室」も「ナチス」も「1939年」と言う時代も「かつてあり今はもうない」。この事実に目を向ける事。そして「写真」はその喪失と、喪失を経て成就する「実存」の在り方を「写真と言う技術」として補佐するものであったと思います(※)。
少なくともCG技術が飛躍的な発展を遂げるまでは。

今、現代。写真の持つこうした意味であり意義は、CG技術の向上によってほぼ失われつつあるだろう。が、しかしだからこそ「それはかつてあり今はもうない」と言う記憶・思い出を契機として刷新される「新たな実存」への希求は、だからこそ新たな思想となるべく、先ずは「哲学されなければならない」のではないだろうか。それは「写真と言う技術」ではない「他の何か異なる技術=アート」について哲学すると言う事でなければならない。

※ロラン・バルト『明るい部屋』の趣旨に則ります。

2021年10月7日 岡村正敏

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