哲学・日記・メモ「信から認識へ、そしてその先へ」
信から認識へ、そしてその先へ
「信じる」のは「疑い」があるから信じようとするのであろう。「疑い」を払拭しようと「信じる」のだから。だとすれば「信」と「疑」は必ず対している。対したうえで「信」は「疑」を無くし「信」そのものに至ろうとする。とするとその「信」の極北に在るのはもはや「信」ではないのだろう。何故ならばそこには「疑」はもはやなく、つまりその対を為す「信」は望みが適い自ら霧散してしまっているであろうから。かくして「信」は「信」ではなく、他の何かになっている。それは何か?それはおそらく「認識」であろう。目の前に在るすべてを全肯定として、ただそれを私が「認識」するという事になるのであろう。
Believe から Being へ。
さらにその先が、もしかしてあるとすれば、それはきっと、
Being から Exsitence なのかもしれない。
Being には残されていた「私」と言う位置がExsitence には無くなってしまっている。だからそこにはもはや「認識」もない。
でもそれは生きている限り不可能なのかもしれないし、むしろそれを可能と語ってはばからない言説には欺瞞を感じてしまいます。
きっとそれは末期の眼においてしか語れないし、自分自身に語ればよいだけのものであろうから。
そう思います。
2021年12月1日 岡村正敏