哲学・日記・メモ 「そもそもに還る事とそもそもの始まりを最もな関心とする事との相違について」
「そもそもに還る事」と「そもそもの始まりを最もな関心とする事」との相違について
●「そもそもに還る事」と「そもそもの始まりを最もな関心とする事」。その旅路の8割は同じであっても残り2割で岐路に立つ。しかしそれを説明しても理解してもらえない事は多い気がします。
●ではこの岐路はどのような岐路なのか?
●一方の路は「そもそもの始まりに回帰したり、回帰が無理なら調和を求める路」。
●もう一方の路は「そもそもの始まりに対して、始まってしまった事に対しての問いを果てしなく問う」路。
●そして私はどちらか一方だけを選ぶのではなく、二足の草鞋を履いてどちらの路も歩むことが出来るし、むしろそうしなければ唯一の路さえ歩む事は出来ないのではないか。そう思うのです。
●一方の路は一神教批判≒ロゴス批判の路としてそれは、東方思想から東洋を経てアニミズムへと至るだろうけれども、もう一方は一神教のそもそもの始まりに対して、その内側からそのそもそもを問うと言う道程の方位を示す。
●具体的にはそれは弁神論を嚆矢とした存在論となるだろうし、またそれは「生き方・暮らし方」を最重要とする事ではなく、「問い」を最重要とする「在り方」に関わる事であろう。
●私は「生き方・暮らし方」と「在り方」は弁別されなければならないと考えるし、弁別しつつ他方を否定するのではなく、二足の草鞋を履いて異なる路を歩んでいかなければならない、と思うのです(つまり両立出来るししなければならない)。
●そこで先ず課題となるのが「生き方・暮らし方」と「在り方」を混淆しないという事。そこが肝要ではないか。「そもそもに還る事」と「そもそもの始まりを最もな関心とする事」の岐路に立った時、双方を混淆してしまうと二足の草鞋で歩めないのだから。
●二足の草鞋で歩む事が何故そんなに肝要なのかと言ったら、そもそもの始まりから発する心身の分裂(私と世界の分裂)を、あくまで分裂を保ったまま、その原初の分裂という事態自体を問う事であるから。「分裂への対処として原初に還る事」。それが唯一の目的ではないからである。 ●そしてそれは宗教の領域ではなく、哲学の領域での「問い」の実践なのだろうと考えています。
2021年6月6日 岡村正敏