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哲学・日記・メモ「中間者・媒介者・促進者についての覚書」

中間者・媒介者・促進者についての覚書
中間者(あるいは媒介者・促進者)にはなりたくない。
例えば学術と現場の「乖離」を問題にしたとき、「中間者」や「媒体領域」を新設する事でその乖離に対処しようとする考え方、この考え方に私は懐疑的なのだ。「乖離がある」という問題の真の問題性は、乖離の克服なのではなく、「乖離と言う事実が在ってしまった」という点に尽きる。だから私は乖離の真ん中に「中間者」や「媒体領域」を置くのではなく、「学術と現場」が示唆している、そういう社会やコミュニティにおける乖離を個人の中に丸ごと反復する事によって「乖離と言う事実に向き合う道」を選びたい。
例えばそれは・・・具体的に言えば、ケアの研究者とケアの現場の労働者の意識の乖離は、個人が研究者であり労働者でもある事によって、個人の中にこの乖離を反復させるという事を志向しなければならないという事でもある。個人の中に乖離をまるごと持ち込むのである。これは「媒介」と言う第三項を新設し「研究者と労働者を媒介者が調停する」と言う「役割分担を社会やコミュニティの中に持ち込む事」とは完全に異なるものである。
乖離を社会やコミュニティの中で媒介項の新設によって克服するのではなく「乖離を乖離のまま個人が引き受ける事」。ここにおいて初めて「ケアするものはケアの研究者であり、実践者でも在る」事になるのだから。社会やコミュニティにおける媒介志向はこの「研究者であり実践者としての個人」の実現を阻害してしまう。それを私は拒みたい。
媒介者・・・それは関係の促進者ともいえるし、両極の曖昧な未分化な領域への志向であるともいえる。反対に、両極を両極のまま個人が抱え込むことで、個人とは「乖離」そのものの反復者として、在る事になる。
そして・・・矛盾した言い方になるけれども、個人がこの反復者として乖離そのものと向き合い、乖離した両極を両極のまま抱え込む事によって、彼は逆説的に社会やコミュニティにおける媒介志向を容認することが出来るようになる。つまり「中間者・媒介者・促進者」と言う本来実体化できない第三項を職業として実体化する事の容認を。
それは暫定的な容認であるのだけれども。
2022年6月 岡村





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