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哲学・日記・メモ「シュルレアリスム・靉光・超現実主義」

シュルレアリスムの非対称性                    「シュル」とは現実を超越した彼岸の世界を指しているのではなく「過度の現実、強度の現実といった意味合い」(巖谷國士)である。つまりシュルレアリスムは何処までも現実を見ようとする。現実を「見る」「主体」を欲する。その「主体」が夢と現実を弁証法的に総合したものとして、シュルレアルを見ようとする・・・。                     『シュルレアリスム宣言』と『シュルレアリズム第二宣言』の中でブルトンは次のように書いている。

「夢と現実という、一見全く相容れない、二つの状態が一種の絶対的現実という超現実の中に解消する日が来る事を私は信じている」(『宣言』)

「生と死、現実と創造、過去と未来、伝達可能なものと不可能なもの、高いものと低いものとが、そこから見るともはや矛盾したものに感じられなくなる精神の一点が必ずや存在するはずである。そこでこの一点を突き止める希望以外の動機をシュルレアリスムの活動に求めても無駄である」(『第二宣言』)

即ちシュルレアルはどこまでもレアルを求めるし、レアルを見る「主体」は意識として必ず残っていくだろう。それが重要なのである。では自動記述はどうなのだろうか?                         確かに自動記述では非主体的に記述が為されはするが、それは主体が非主体的に行為を遂行する為の技法として用いられるのである。だから目的はやはり、そこから生み出される「シュルレアル(過度の現実、強度の現実)」を「主体」が見つめ新しいレアルとの出逢いに驚嘆する事であろう。故に「主体」は自動記述においても放棄されてはいない、ならば、シュルレアリスムとは、ブルトンの『宣言』による限りその目的を、現象の向こうに隠されている未知なるレアルを驚嘆を発条にしてどこまでも暴き出していく、意識の覇権主義、と考える事は間違いであろうか。              例えばブルトンは女性をミューズと見做す傾向があったが、それは女性(性)が意識の弁証法的プロセスを保証するのに不可欠な客体として捉えられていたからではないか。意識を脅かす事のない都合よく理想化された客体として、あくまで男性優位下の存在として、しかも何処までも侵犯可能な神秘性として、女性(性)をそのような非対称な対立図式の一項として見ていたからではないのか。ブルトンにとってそして『宣言』においてのシュルレアリスムとはそういうものではなかったか。しかし他の多くのシュルレアリストは制作において「あそぶ」事を愉しんでいるように思えるのも事実である(「デペイズマン」「フロッタージュ」「デカルコマニー」などの技法によって)。そしてこの「あそび」は言葉遊びからイメージの遊びを経て「オブジェ」をその極みとした「もの」との「あそび」に終着する。これをイメージのオブジェ化(触覚への接近)と呼ぶならばそれは、ミューズ的理想化という欺瞞的イメージの非対称性から離脱して、「あそび」の対称性を目指す試みであったと言えるかもしれない。が、しかしあくまでミューズ的イメージからオブジェへの移行とは、男性(性)=シュルレアル=強度の現実、の側からする移行であったことを考えれば、「あそび」は男性中心のシュルレアリスムの運動における臨界点であったのではないだろうか。

「超現実」の触覚性                         日本の超現実主義はシュルレアリスムとは異質である。それはシュルレアリスムという語をそのまま使わず「超現実」という訳語として広まり、その語感が示す異質性として展開された事に象徴される。シュルレアリスムが、主体と客体、意識と無意識、夢と現実といった二項対立図式の、男性(性)からする対立図式の超克の試みであって、主義であり理論であり、技法と方法の考案によって(または考案という男性的な進展によって)展開していったのに対して、日本の「超現実」の展開過程ではそれらはさほど作家にとって重要視されなかった。作家はイズムや技法・方法の理解や関心からではなく、日本に紹介されたシュルレアリスムの作品から直接受ける感覚的理解を優先させていた。それは視覚から受ける触覚性であり、マチエールや量感、身体的リズム、内臓感覚であり、作家はそれを「超現実」として具現化しようとした。そしてこの触覚性(マチエール、量感、身体的リズム、内臓感覚)は距離0の直接性として、主客の対立図式を最初から放擲しているものでもある。という事は、日本の「超現実」主義(正確には主義ではないであろうが)はシュルレアリスムがたどり着けなかった終点(もしくは視野に収めていなかった領野)から始まるものであったと言えるのではないだろうか。それは女性(性)のミューズ化からオブジェとの「あそび」に至る、男性性・視覚性のなし得る臨界をはじめから易々と超えて、行為の直接性を軸に制作されていく、その制作姿勢のようなものでもあったであろう(靉光の『シシ』や『風景(眼のある風景)』の制作過程から推測されるような姿勢)。行為の直接性はやがて触覚性のイメージ(マチエール、量感、身体的リズム、内臓感覚)に結実していく。象徴的にはそれは、腐乱した死体としての昏い女性(性)であり(靉光の静物画に漂う雰囲気にみられるような)、やがてそこから豊かな生命があふれて出してくる女性(性)でもある。そして・・・それはしかし、やがてそこから主客を分離する眼差しが再び生じてくるであろう胎動を宿した「場」でもあるだろう。靉光の『風景(目のある風景)』はその予兆であり、ならば描かれた眼は再び主客の二項対立を志向する眼差しの予兆でもあるのではないだろうか?                                        

                     2018年2月1日 岡村正敏

参考文献                             『シュルレアリスム宣言』アンドレ・ブルトン             『シュルレアリスムとは何か』巖谷國士               『日本のシュルレアリスムの思考野』黒沢義輝


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