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哲学・日記・メモ「その人が死ぬ時」
その人が死ぬ時 マンガやドラマの常套句。「想い出がある限りその人は生き続ける」。そんなわけはない。その人との想い出が、生き生きと私の暮らしの中に留まっていても、その人が生き続けているわけではない。そこには更新性がないから。誰かが死ぬ時とは、彼彼女との想い出を新しく紡いでいく望みが絶たれたとき、そう確信してしまった時である。その更新を断たれたとき、はじめて人は死ぬのであろう。と思う。感傷的にそう思うんじゃなくって。順を追って考えを進めていくと、そうなる。
●その人が死ぬ時とはどういった時なのだろうか? ●A君が死んだ。と誰かから伝え聞いた時「え!うそでしょう?」と思う。そして、周囲の数人からA君は死んだのだというのを聞いて、初めて私は「ああA君は死んだのだな」思うのである。 ●しかし数日後それは誤情報だったと分かったらどうだろう?しかもA君から手紙が来た。A君からメールが来た。A君から電話が来た。A君とオンラインチャットをした。となったら私はA君は生きているのだと確信するだろう。 ●しかし・・・それから10日たって、実はあの時のA君の手紙もメールも電話もオンラインチャットも、全部嘘で最新の動画編集とAIコミュニケーションによるものであったという事が伝えられたらどうだろう。 ●やはりA君はその時死んでいたのである。悪質な悪戯だ。私は当然憤慨するだろうが、しばらくして冷静になるとはたと考えるのである。では私が「A君は実は生きていた!」と思いこんでいた10日間は、A君は私にとって本当に生きていなかったのか?と。 ●確かに10日まるまる連絡を取ってなかった。しかしその間は確かにA君は生きているものとしてA君の存在は私の暮らしの中に組み込まれていたのである。 ●A君が死ぬとはいったいどういう事なのだろうか?と考える。よく漫画やドラマで言われるのは「その人との想い出を失う事がその人が死ぬ事である」という事・・・。 ●しかし本当にそうだろうか?想い出が消えたら、もう想いだせないのだから、死ぬという事ではなくて、単にその人の存在が私から消えるだけなのではないだろうか? ●逆を考えてみよう。A君の死を私が最初に確信した時、A君の想い出は消えていなかった。A君の想い出に浸る事が出来たからである。そして実はA君は生きていたと言う誤情報を知った時も当然A君との想い出は消えてはいない。これまでのA君との関りをありありと想い出せたからである。さらにA君がやはり死んでいたと知るまでの10日間も想い出は確かにあったのだ。あったけれどもA君はやはり死んでいたのである。という事は、私がA君との想い出と共に生きているという事は、A君の生き死にとは全く無関係であるという事になる。 ●つまりあのドラマのセリフ「あなたとの想い出を失わない限りあなたは生き続ける」と言う常套句は嘘、という事になる(何故って、あなたとの想い出が失われていなくても、あなたが死んでいる事だってあるのだから)。 ●そこでこういう問いを立ててみる。
問い。では何がA君の死を確かな死と確信させ得るのであろうか? 答え。A君にもう2度と会う事はない言う事。 さらなる問い。それはつまりどういうことか? さらなる答え。それはつまり、A君との想い出の更新の可能性が絶たれたと、私自身がそう思ってしまう事。
●A君との想い出の更新の可能性が絶たれない限り、A君は生きているのである。それがAIと画像・動画編集による秀逸なヴァーチャルコミュニケーションであったとしても、精巧なA君のアンドロイドであったとしても、それらを私がA君と認識し、想い出を更新し得る限りでA君は生きている・・・! ●A君が死ぬ時とは、A君との想い出を新しく紡いでいく望みが絶たれたとき、そう自ら確信した時なのである。その時A君は死ぬのであろう。 ●あるいは、これを強い表現にして言えばこうも言える。 「その人が死ぬ時とは、必ず私がその人を殺しているのだ」と。
●ところで、最後の審判では死者が生き返るのだという。これは死が存在しないという事である。死んだ者も最後の審判で蘇り、再び出会い、思い出を紡ぎだすことが出来るのだから。 ●対して日本的な死は、死者は死の国に逝くという(地の底や、海のかなた、山のかなた)。想い出がゆらゆらとそこに漂うという考え方であろう。●想い出はそこに漂うだけでその更新がないのである。このような「想い出の更新」を自ら断った「死の文化」は日本文化には濃厚に染みわたっている。それは「死者の想い出・想い出と言う物語り・物語りと言う歴史」の「更新」を自ら断った文化であり「末期の眼」で眺め尽くされた文化でもあるのだろう。
2021年2月1日 岡村正敏