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群青 二

 ぼくが父に怒られたのは1回しか記憶していない。 それはぼくが母の財布から200円を盗んでカブトムシの幼虫を2匹買ったときのこと。母に幼虫を前に問いただされ、帰ってきた父に茶の間の隅まで追われるようにひどく怒られた。叩かれたかは覚えていない。子どもにとっては、そんな ものなのかも知れない。

 父の部屋というのがあって、いつも新しいタタミくさく、難しい本が一杯並んでいた。全20巻とかの専門書シリーズものの書籍が多かったように思う。ぼくもよく本、特に図鑑を与えられた。中でも学研が多かった。ぼくは生きものが大好きで、 車や怪獣はあまり好まなかった。

 父のその部屋には、夜に農家のおばさんがよく来ていた。父は独学で「はり治療」をしていたらしい。今思うと、その当時の農家さんの女性の肉体的負担は今よりもっとつらかったにちがいなく、農家さん相手に仕事をしている父がそういった農家さんの女性たちの体のことまで心配していたことは、本当につくづくすごい話だと思う。

 また、父はミミズの養殖を自宅の横に100万円くらいかけて始めた。 コンクリートの基礎をうって、黒いビニールハウスを建てた。 中は左右に槽があって土が入っており、表面にムシロがかけられていて、そのムシロをめくると縞々模様のミミズがこんがらがっている状態で飼われていた。 父はそのミミズのいる土をふるいにかけ、さらさらになっただけの土を麻袋に入れては希望する農家さんへとあげていた。 「土づくり」になるんだといっていた。 らっきょうの形に似た、ミミズの卵というのも、そのとき初めて知った。
 父が死んだ後に弔問に訪れた旭川の同業者がミミズ養殖の床にコンクリートはダメだよ、と言っていた。その人はミミズを”うどん”の代わりにして食べたとも自慢げに言っていたことを、ぼくはギョッとした気持ちで覚えている。
 食べたといえば、自宅の前には小さな芝生があって、ぼくはハチに襲われたことがあった。父が早速そのハチの巣をとって、中にいた幼虫を炒めて食べていた。 甘い、甘いと喜んでいた。もしかすると、父もミミズを食べていたかもしれない。

 父は剣道初段をもっていたらしい。ぼくが小学2年生のとき、いきなり武道館に連れて行かれ、夕方の稽古風景を一緒に見て、ぼくは少年団に入らされた。 なぜ、剣道をさせられたのか未だにわからない。中学3年生で初段をとるまで続けた。

 同じ小学2年生の夏休み、父は何を思って期待したのか、ぼくは毎日画用紙へ絵を描かされた。描きたくなくとも、図鑑を見ては、大きなゲンゴロウなど描いては、ごまかしていた。ぼくは絵はそんなに好きではなかった。 それでも、父はぼくを近くの市にある絵の塾に通わせたかったらしい。

 ぼくの小学1、2年生の頃の担任は葛木と○こ先生といって、赤いセーターの似合うかわいい感じの女性の先生だった。父は学校教育活動に熱心だったのかはわからないけれど、よく学校に図書を寄贈し、小学校の図書館の片隅には蔵書印の入った本コーナーまであり、ぼくは恥ずかしかったのを覚えている。

 ぼくたち一家は、ぼくが小学4年生になるときに網走市のとなりの村へ引っ越しする予定だったらしい。 新天地へのあこがれと少しの照れがあり、そのことはよくザリガニ、カエルやサンショウウオなどを捕りに行っていたコーイチくんにしか、それらしいことは言っていなかった。
 ぼくたち一家は、何度かその村へ下見に行った。今でもネコのたくさんいたお宅や水田の広がるたたずまい、養殖場の下の川にいたサクラマスの群れ、 村からの帰り道の悪さなど覚えている。

 なぜ、引っ越すことになったのかというと、父はもう32才くらいにして湧○町では家畜共済組合所長をしていて、酪農学園大学の卒業生としても初の所長で、 組合や組織活動にも熱心だったらしく、村の人がぜひにと言って丁寧に何度もお願いに来てくれていたらしい。 結局、父はその直前に死んでしまったので、引っ越しは結局なくなってしまったのだ。

(カバー写真は、網走から見る流氷と斜里岳)

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