自画像
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気になってたマティス展へ行ってきた。最近は土日でしか美術館に行けなくなってしまったので、タイミングを見計らって行ってきたのだが、土日の美術館は人が多い。作家の魂の遍歴を孤独な集中力で見つめ続けることで自分の何かしらが引きずり出されるみたいな感覚が面白いのに土日は人が多すぎてそれに集中できない。何か音をあびながら歩くか…と思い立ったのがこのアルバム。家で聴いてもその家の空間がどこか別のアート空間へ飛ばされるような究極の音のシャワーでそれはそれでよかったんだけど、こういう異質な空間に聞くとより世界観がきわだつ。なんていうんだろう、目の前にある光を輝かせる名脇役的な,,,そんな聞き方してすみません。言いたいことわかりますか、音という元来の性質、歌詞やメロディーが到達できない日常とのリンクしていく感じの超自然的なパワーっていうのかが発揮されていて多分2周はしていたと思う。
背中
美術にあまり詳しくはないんだけど、個人的に一番よかったのは背中という彫刻の4作品。背中という意外と描かれることが少ない部分を彫刻で表現していて、背中1はマティスがダンスを作っている時のもので、人間の骨格、躍動感、体の本質に迫っていくプロフェッショナルな部分が存分に楽しめる。この彫刻がその周りの年代の絵画に伏線のようになっていて生きている。
マティスは度々絵画で迷走するとこの背中の彫刻に戻ったそうで、また別の時代でもこの彫刻をアップデートして全て4種類あるわけだが、この4作品がマティスの作家遍歴そのものを表しているようで、とても興味深かった。最後は出来るだけ削ぎ落とされた、デザインのようなものになっていき、それが礼拝堂の作品に代表されるマティスのデザインの彫刻になっていて感動した。
背中の他に、マティスは自画像が多い印象だった。自画像とは自分を確かめるためのものだったというような表記がいくつかあったのだが、マティスは自分が作品を作る時、自分を見つめ直す時に自画像や背中のような今一度自分に立ち返る場所があったのだなと理解し、なんだか羨ましくなった。
自画像
帰り道にオーディオブックを聞く。上野から湘南までの道のりはかなりあるから長尺の物語の読み聞かせはかなりリラックスできる。村上春樹の騎士団長殺し、第2部「遷ろうメタファー編」の上の序章をきく。2ヶ月前ぐらいから聞き始めて、第1部計20時間は聴いたということになる。村上作品を読む時は特にIQ84とかを読んでいた時は、一章を1日だけ読むみたいな、結果的に季節の移り変わりを感じながらじっくり読む感じになっていて、その季節のテーマソング的な感じで物語が自分の脳内のバックグラウンドで再生されている感じが好きなのだが、まさにオーディオブックはその感じ。出先の移動や何もしたくない時に目を瞑りながら聞くので、体感としては本を読む時と同じ。愛読家というわけでもないので、こういうスタイルが性に合う。
そんなわけで今回も帰り道に聞いていたのだが、登場人物のめんしきさんの自画像、<それは私のようであって私ではない>、自画像というか自画像よりも一歩先をいった抽象表現された何かを秋川まりえに紹介するシーンだった。ここでも自画像か… 確かにこの作品は自画像、絵を描く行為を通して、人間を抽象解釈していく試みや絵の中のイデアがメタファークイズみたいなことを言い出したりするのが面白いのだが、この自画像というテーマとマティスの創作作業が<それは私のようであって私ではない>という抽象的な言葉に結びついた。自画像が<それは私のようであって私ではない>を認識する作業であるとすれば、今日のマティスのあの作業の真意がようやく理解できた気がする。ただ、僕は自画像が嫌いだ。美術の時間で自画像を書かされた記憶があるが、自分の顔が嫌いすぎてなんでこんなリアルな自分の顔を書かなければいけないんだ、そしてデフォルメされない自分がかなり薄気味悪く、今もその完成した絵の不気味さの感覚は残っている。思春期の顔つきが変化していくことに対しての定まらなさと感情のコントロールのできなさとその他諸々のコンプレックスと向き合うのがかなり苦しかった。何度も鏡を見てなんでこんな形なんだろうみたいなことも思ったことも覚えている。今ではそれなりにいい音楽を作った瞬間とか、いい写真を撮ってもらった時とはいい顔しているな自分と向き合えるようにはなったが、当時の自分にとってあれは地獄みたいな作業だった。そんな思い出があってか、自画像を描くという行為そのものの意味の理解ができていなかった。
当時思い描いていあの薄気味悪さは自分の未熟さと定まりがない状態に対する漠然とした不安だったのかもしれない。今の自分はそれと向き合えるだろうか。そう思うと音楽で抽象的に同じようなことをやっていることに気づく。
okkaaa ptシリーズは自分にとっての自画像的な立ち位置かもしれない。今自分こういうの好きだなとかこういうことやってみたい、これの方が向いているんじゃないかというラフなものから、自分の感覚を抽象的になぞってみたりすることで生まれる音の響きや言葉の響きに嬉しくなったりと… ああ、そういうことか。と実感した。とはいえ、ptシリーズの自分はとてもデフォルメされている。こうなりたいこうありたいという欲望の型が先行している。しかしながらその自分のスタイルを振り返りながらもVoyageという拙作を出せたわけでその出来栄えについては自分なりに納得しているつもりだ。
ptIIIという自画像はかなり歪だ。これを書き上げた自分が、今の自分の顔と見比べてみればそれが歪か歪じゃないかぐらいはすぐにわかる。そしてこれは本人のみがわかるもの。名刺としてこのEPは自分の顔を知らない人に届いているがほんとうの僕との整合性は僕だけが知っている。pt.IIIが向かう先は自分が一番わかっている。さあ、次が僕がやるべきことは……
その他・メモ