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初代ガンダム三部作、視聴しまーす!【オキテカクヒビ_023】

オキテカクヒビ』は、オキテカクが触れたコンテンツについて、1,000文字程度で書き綴る記事シリーズである。毎日21時更新予定。

 木曜日は動画の紹介。今回は、週末に見る某映画と関係のあるこちらの作品。

動画/機動戦士ガンダム 劇場版三部作

 こちらの作品を見るのは、週末に『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)-Beginning-』(以下、ジークアクス)を観るためである。

 オキテカクはこれまでガンダムには殆ど触れたことがないので、「何も知らずに本作を観ても良いのだろうか」と知り合いに相談したところ、「初代ガンダムの劇場版は観ておいた方が良い」というアドバイスを受けた。
 そのため、Amazonで初代ガンダムの劇場版三部作をレンタルした。以下、それぞれの感想を書いていく。

劇場版 機動戦士ガンダム

 とにかくシャアの一挙手一投足がすごい。最初にやることが民間地への侵入からの情報収集に破壊工作と、とにかく容赦がない。一方でガンダム相手にザクを六体くらい失うという失態も犯していて、デキる男なのかダメな男なのか分からない。戦死した友人に対して『坊やだからさ』と言うのは辛辣すぎやしないか。
 一方のアムロであるが、とにかく大変な印象。(彼に限った話ではないが)望んでガンダムに乗った訳でもないのに、戦禍に巻き込まれ翻弄されていく。連邦は何をやっているのか。その中でも一度出撃出来なくなった折、再起のきっかけとなったのが一度敗北したシャアの登場なのだから面白い。当人はそれを『男の子なんだな』と形容していたけれど、その価値観は現代にも通じるのだろうか、とふと考えるなどした。
 ロボットのアクションや造形については、さすがに過去のものだな、という印象。一方で連邦もジオンも、互いに読み合いながら探り合いながら懸命に策略を講じていく展開は、見ている間の緊張を良い形で保ってくれた。

劇場版 機動戦士ガンダムII 哀・戦士編

 タイトルの通り戦士たちの悲哀が描かれていて良かった。アムロのみならず、皮肉屋ながらも自分なりの理念を持っていることが描かれたカイ、傷を負いながらも最後まで戦い抜いたリュウ、それを止められなかったハヤト、(ホワイトベースにおいては相対的な意味合いで)子どもでありながら一緒にいることを選んだカツ・レツ・キッカ等、多くの人物に焦点が当てられていた。これが連邦陣営に留まらず、ジオン軍の側も描かれていて、群像劇としての面白さをひしひしと感じた。こういった点が後生に語り継がれる要因の一つなのだろうと思う。
 シャアは左遷されていても元気そうで良かった。

劇場版 機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編

 ニュータイプという要素が色濃く描かれ、それに翻弄されるアムロたちが描かれた最終作。その能力の高さからシャアが終盤にスカウトするまでに至ったアムロ(とガンダム)は、序盤のように子どもめいた態度を欠片も見せることなく、軍人として戦っていく。それを悲哀と捉えるのは、今の時代からアムロたちを見ている者の傲慢なようにも思える。それでいて、アムロが最後の最後に自分の帰る場所を見い出し、ガンダムとも離別していくのは物語の結末としてとても良かった。これで宇宙世紀が終わるのであればもっと良かった。Zガンダム1話を見るに、どうも事態は単純ではないらしい。
 シャアについては、アムロとサイド6で対峙した際の対応が印象的だった。連邦やジオンの兵士たちは一般人に対してかなり横柄な態度を取るが、車を窪みに引っ掛けたアムロに対して終始優しい態度を取っており、それは一種の『もしも』――二人が戦争でない最中に出会ったのなら――を想起させる。ザビ家をことごとく滅ぼしていったシャアはZで何をするのか。初代オマージュなのか1話から潜入していてちょっと笑った。

 友人に勧められるがままに初代三部作を見てきたけれど、かなり満足感があった。これを踏まえたジークアクスがどのような内容なのかは、薄らとしか知らないが、とても楽しみである。見た直後に感想を投稿する予定なので、ぜひフォロー等して待っていただければと思う。

オキテカクヒビ』は、オキテカクが触れたコンテンツについて、1,000文字程度で書き綴る記事シリーズである。毎日21時更新予定。

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