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かつて南城市に存在した久手堅連絡所
南城市は、2006年1月1日に、佐敷町、知念村、玉城村、大里村の1町3村が対等合併して誕生した市である。
このうち、旧・佐敷町には、沖縄バスの南城出張所(佐敷町新里)、東陽バスの場天営業所(佐敷町津波古)の2営業所、旧・玉城村には、琉球バス交通の百名営業所(玉城村百名)が設置されているが、かつては、旧・知念村にも東陽バスが「久手堅連絡所」というバス営業所を設置していた。
旧・知念村久手堅に設置
東陽バスの久手堅連絡所は「沖縄県南城市知念字久手堅543」に設置されていた営業所で、現在の南城市地域物産館の北隣に立地していた。バス停で言うと「斎場御嶽入口」が最寄りとなる。
現役当時の1993年8月当時の航空写真を以下に示す。バスが7台ほど停車しているのが確認できる。なお、敷地の南側にバス2台分ほどの建物が1棟あるのは確認できるが、給油所や洗車場のような車両を整備するための施設は見あたらない。
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(国土地理院の空中写真【OKC931-C52B-16】を筆者が加工)
「連絡所」という施設名は聞きなれないが、給油等の車両整備機能を備えたフルスペックの営業所よりは下位だが、バスを折り返しの間だけ駐機する駐車場よりは上位・・・位置づけだろうか。実際、閉鎖直前の2006年4月当時の時刻表を見てみると、早朝の那覇向けには久手堅連絡所始発と、夜間の志喜屋発には久手堅連絡所止まりがあり、夜間停泊が行われていたようなので、整備施設が無い以外は営業所と同等の機能を有していた可能性が高い。
管轄路線は38番・志喜屋線
久手堅連絡所を発着していたのは、那覇バスターミナルと志喜屋を結ぶ、東陽バスの38番・志喜屋線である。バスの営業所は、路線の端末部に設置されることが多いが、この久手堅連絡所は、38番・志喜屋線の経路途中に設置されている営業所であった。それゆえの運用として、志喜屋から那覇バスターミナルへ向かう場合は、一部便を除き久手堅連絡所での乗り換えが必須であった。図で示すと下記のようになる。
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名の通り「久手堅」で別のバスに「連絡」をしており、バス事業者側の運用上は、回送や待機時間が最低限に抑えられ効率が良かったと思うが、利用者側からすると乗り換えの手間があり不便だったのではないかと思われる。
ちなみに、朝の通勤通学時間帯は乗り換えなしだが、それ以降の時間帯では乗換必須で、数分の待ち時間で乗り継げる便もあれば、10分以上待たされる便も存在した。また、志喜屋からのバスが久手堅連絡所に到着する数分前に、連絡所を出発してしまうバスもあったようである。ただし、那覇から志喜屋に到着したバスが、時間調整する間もなく志喜屋を出発し、久手堅連絡所に向かっていたようなので、那覇市内での渋滞による遅れの影響で、ここで想定する通りの乗り換えが出来ていたかは、そもそも怪しいところではある。
初代久手堅連絡所があった
この久手堅連絡所であるが、先ほど地図や航空写真で示したものは、2代目の久手堅連絡所であり、初代は、もう少し西に向かったところにある旧・知念村の中心地に近いところに立地していた。住所で言うと「知念村字久手堅61$${^1}$$」であり、現在は久手堅駐在所が立地している。バス停で言うと「久手堅」が最寄りとなる。
初代・久手堅連絡所が現役だった1970年5月当時の航空写真を以下に示す。バスが2台ほど停車しているのが確認できる。
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(国土地理院の空中写真【MOK701-C14-3】を筆者が加工)
この航空写真では、建物が明確に判断できないが、電話番号が設定されていた$${^1}$$ようなので、職員は常駐していたようである。よって、機能としては2代目・久手堅連絡所とあまり大きくは変わらなかったと想定される。
初代から2代目への移転時期は不明であるが、1980年時点では初代の「久手堅61」にあり、1984年11月時点の航空写真では2代目の「久手堅543」の位置に移転しているため、1980年~1984年11月の間に移転したものと想定される。初代・久手堅連絡所は、かなり村の中心部に近いところに立地していたため、敷地的に手狭になっても拡張が難しかったのかもしれない。
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OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors
昔から運用は変わらず
初代・久手堅連絡所の時であった1978年7月30日時点でも、那覇バスターミナルからは乗換不要で志喜屋に向かっていたが、志喜屋から出発したバスは久手堅連絡所が終点となっていたようであり、運用としては初代も2代目も同様だったようだ。
東洋バス⾺天営業所で配⾞係を務める平良實さん(74)は、ナナサンマルの⽇を運転⼿として迎えた⼀⼈だ。
「那覇バスターミナルから出発して志喜屋で折り返し、久⼿堅営業所まで運転した。もう緊張しっぱなし」と、懐かしそうに振り返る。
太字は筆者によるもの
なお、初代・久手堅連絡所であった当時は、38番・志喜屋線以外に、久手堅を通過して、志喜屋より手前の知念が終点となる37番・知念線が運行されていた。この知念線も、久手堅連絡所は経由地となるため、志喜屋線と同様の運用を行っていた可能性があるが、知念バス停~初代・久手堅連絡所は約1.6kmと短いので、志喜屋線とは異なり、知念到着後は回送で久手堅連絡所まで戻り、那覇行きは久手堅連絡所から回送で知念まで向かい、知念から営業運転を開始・・・の可能性もある。これについては、当時の時刻表が見つけきれていないため、実際のところは不明である。
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OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors
この37番・知念線については、2代目・久手堅連絡所となった後の1986年4月~1987年3月ごろに廃止されている。初代の位置から2代目の位置への移転により、終点であった知念からは離れてしまったので、経路が包含される志喜屋線に集約・・・という意図があったのであろうか。
2006年に廃止
特殊な運用が実施されていた久手堅連絡所であるが、2代目・久手堅連絡所は2006年11月30日をもって廃止されている。連絡所の立地していた土地は、借地では無く、東陽バスが所有していたようであり、会社再建に向けた資金確保を目的として、土地そのものを売却したようである。
昨年9⽉に⺠事再⽣法の適⽤を申請したバス会社の東陽バス(那覇市、祖堅信夫社⻑)の債権者集会が16⽇、那覇地裁で開かれた。担保権が設定されていない⼀般債権15%カットするなどとした「再⽣計画案」に、出席した取引先など26の債権者全員が同意し、計画が成⽴した。那覇地裁も認可した。今後は計画の実⾏段階に移り、計画に基づく返済を⾏いつつ不採算路線の⾒直しなどの事業再構築を進め、会社の再建を⽬指す。
(中略)
経営合理化では来年4⽉に不特定客を対象とした定期観光バス部⾨を廃⽌するほか、2005年度以降に具志川市内の資産や知念村の久⼿堅営業所、与那原町内の整備⼯場の売却や移転などを予定している。
太字は筆者によるもの
元々、路線図上では「久手堅連絡所」を名乗るバス停が存在せず、連絡所の前には「体育センター入口」バス停が存在したことから、廃止に伴うバス停の新設や改称は無かった(連絡所の廃止とは無関係に、翌2007年7月1日に「体育センター入口」は「斎場御嶽入口」に改称)。
久手堅連絡所が廃止された直後の38番・志喜屋線は、1日56~61本から1日29~31本へと大幅に減便された。一方で、志喜屋から那覇バスターミナルへ行く際の乗り換えが不要となった。ただ、志喜屋から馬天営業所への片道約8kmの回送を、志喜屋到着のたびに実施することとなり、運用上はかなりの無駄と判断されたようで、一時期は、久手堅連絡所の代替として、終点の志喜屋付近に折り返し駐車場を確保する案も出たようだ。
当該路線は、全27.9キロの運行距離のうち、利用者の少ない新里入口から志喜屋までの運行距離が13.7キロと極めて長く、さらに志喜屋から馬天営業所発着地までの距離、片道7.5キロ、回送運行のため、採算性が著しく悪化したことで、減回は避けられない状況になっているという通知が7月29日ございました。
東陽バス株式会社から回送にかかる経費節減や乗務員の休暇時間を確保するため、起終点である志喜屋の付近に折り返し場所の確保が必要不可欠ということで、平成21年5月18日付けで志喜屋やすらぎパーク駐車場の使用願いの要請があり、寄せられております。
太字は筆者によるもの
資金確保のために土地を売却したのに、非効率になったので新たに土地を借用する・・・・のは、あまりにも行き当たりばったりな経営のような気がするが、最終的に志喜屋の土地借用計画は白紙になったようで、ルート上に立地している東陽バス本社にて、乗り換える形式に落ち着いた。なおこの変更で、再び久手堅連絡所時代と同様の、直通では行き来出来ない運用へと変更されていたが、この運用は、2019年10月1日の大幅減便時に廃止され、2024年2月現在は、1日1~2本しか運行されていないためか、再び直通運行かつ馬天営業所~志喜屋間は回送の運用に戻っている。
ちなみに、2019年10月1日より、かつて2代目・久手堅連絡所があった「斎場御嶽入口」を終点とする、338番・斎場御嶽線が運行を開始しているが、当然ながら売却済みの土地に折り返し用の駐機場を設置することは出来ず、少し海側に入り込んだところに位置する知念体育館前の路上に、専用の駐機場所が設置されている。
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OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors
脚注
バスルートマップ沖縄(1980年 運輸経済研究センター発行)