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No.1316 身まかり師

「仕事と生活をしっかりする事。そうしなければ弓は引けませんよ。」
そうおっしゃったのは、45歳で初めて弓道教室に通い始めた私を折に触れて指導して下さったI先生です。当時、65歳だったはずです。

I先生は、弓道教室初心者講座に通い始めた我々受講生に対して、
「よく来てくれました。長く弓を続けて下さい!」
ではなく、
「仕事や生活が一番大事。弓はそれらが出来て、余裕が生まれてからで十分です!」
という考え方でした。私は緊張感がほぐれ、良い師に巡り合えたことを喜びました。

I先生は、夫婦ともに親しくしてもらっている私の同僚(女性教員)のお父さまでした。お顔に、「厳格居士」と書いてあるような、少し気難しそうで風格ある人物でした。若者とは違い、初歩から手のかかる私でしたが、細かい事よりも要所をきちんと教えてくださった後は、じっと見守ってくださる、そんなタイプの指導法でした。

私は半年間の弓道講座を修了し、その後1年間、何とか弓道場に通いました。しかし、生来の「長く続かない病」が、弓の未熟なままのくせに頭をもたげます。仕事の多忙さを言い訳にするつもりはありませんが、要領の悪い自分に、時間の余裕が持てませんでした。

さらに、習い事には必要経費がかかりますが、常に手元不如意の私は、なかなかその費用を捻出できません。弓道の道具一式も着物も昇段の審査料も、私のような身には大金過ぎたのです。私は、尻尾を巻いてあとずさりしてしまいました。

およそ、「道」のつく習い事と言うのは、どうしてあんなにもお金がかかるものなのでしょうか?そして、それは、なんの「道」なのでしょうか?私には、容易に歩めない道でした。金を持たぬ者は、お呼びでないはない世界に、私は長居することは出来なかったのです。弓道から学ぶことは多かったのですが、そして、何ごとも続けた先にしか手に入れられるものもなかったかも知れませんが、私は、I先生に再びお会いする機会を失くしました。

昨日の朝、新聞を読んでいた時、ふと、「おくやみ」欄に目が留まりました。その最初にI先生のお名前がありました。2日前に91歳で亡くなっておられました。そして、11時からご葬儀だということを知りました。弓道教室のあの日から4半世紀が経っていました。
「えらいこっちゃ!」
と、二度と再会が叶わぬようになってしまったことをひどく悔やみました。後の祭りです。

カミさんとご葬儀場にうかがいました。再び猛威を振るい始めたコロナに感染し、病状が急変したとのことでした。回復を信じておられた娘である同僚の先生も、予想外のことに驚き、深い悲しみに包まれていました。

人は、いつ、どんな形で天に召されるか、西方浄土に赴くのか、土にかえるのか、誰にも分かりません。そして、貧富にも、貴賤にも、門閥にも、人種にも、国籍にも、男女にも、老若にも、有名無名に関係なく、容赦なく必ずおとずれるものです。

『古今和歌集』巻第十六・哀傷歌・833番で、
「藤原敏行朝臣の身まかりける時に、よみてかの家に遣はしける」
の詞書の後、紀友則は次のように詠みました。
833 寝ても見ゆ寝でも見えけり大方はうつせみの世ぞ夢にはありける
(亡くなられたご主人のお姿が、寝ても夢に見え、寝ないでも幻に浮かんできます。しかし、考えてみれば、この現実そのものが夢だったのです。)
藤原敏行の没年は901年とも907年とも言われているそうです。恐らく907年以前のことと思われます。「うつせみの」は「世」にかかることの多い枕詞ですから、平安時代の人々も、現実の儚さを強く認識していたのでしょう。昔も今も、この世は夢幻のごとくはかないもののようです。

ところが、その『古今集』の838番で、今度は、紀友則自身が亡くなった歌が載っているのです。
「紀友則が身まかりける時よめる」
という詞書に続いて、詠んでいるのは紀貫之です。
838 明日知らぬわが身と思へど暮れぬ間の今日は人こそかなしかりけれ
(こういう私でさえ、明日の運命のわからないことは承知しているのだが、こうしてまだ生きている今日という間は、亡くなった彼のことが悲しくて、他の事も考えられません。)
紀友則の没年は907年前後とされていますから、今から1115年以上も前の人の心ですが、本当にその通りだと共感しました。師の御霊の安らかならんことを切に祈りました。

それにしても、新聞の「おくやみ」欄のお陰で、その訃を知り、敬愛する弓道の師の最後のお別れに間に合うことができました。この場を借りて、新聞社の御配慮にお礼を申し上げます。


※画像は、クリエイター・ゆづる@クリエイティブ・サバイバーさんの、タイトル「【弓道】早気克服備忘録2:原因を訂正する①-2」の1葉をかたじけなくしました。お礼申し上げます。