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No.909 心に残る曲、心に浮かぶ人

小学校6年生の時、放送部員でした。「ガボット」「メヌエット」「くるみ割り人形」「ペルシャの市場にて」「動物の謝肉祭」「アメリカ巡覧兵」などの曲や曲名は、その頃に覚えたものです。
 
当時12歳だった1965年(昭和40年)の流行歌としては、
「女心の唄」バーブ佐竹
「さよならはダンスの後に」倍賞千恵子
「まつの木小唄」二宮ゆき子
「網走番外地」高倉健
「夏の日の想い出」日野てる子
「柔」美空ひばり
「愛して愛して愛しちゃったのよ」田代美代子&和田弘とマヒナスターズ
「サントワマミー」越路吹雪
「二人の世界」石原裕次郎
「夜明けのうた」岸洋子
「知りたくないの」菅原洋一
「涙くんさよなら」坂本 九
「赤いグラス」アイ・ジョージ、志摩ちなみ
「女ひとり」デューク・エイセス
「新聞少年」山田太郎
「星娘」西郷輝彦
「涙の連絡船」都はるみ
など、今なら鼻の奥をツーンとさせながら歌える歌の数々でしたが、校内放送でそんなレコードを流した記憶は一切なく、ひたすら洋楽や交響曲でした。ド田舎の小学校でしたが、多分、顧問の先生の名曲を聴かせたいとする意図があったのだろうと思います。
 
ある日の昼休みの放送で、珍しく盲目の筝曲家・作曲家だった宮城道雄(1894年~1956年)の「六段」のレコードを流したところ、手尾日出男校長先生(禿げ頭だったので「毛よ出でよ校長先生」と密かに呼んでいました)が、いきなり放送室にやって来られて、「もう一回!」と人差し指を立てた姿が忘れられません。すごく嬉しかった思い出です。
 
その宮城道雄については、1993年(平成5年)11月21日放送の「知ってるつもり?!」という番組で見ました。小学校の時に放送した「六段」の調べを情感豊かに爪弾いた盲目の筝曲者の人生を、その時初めて知りました。そして、不慮の事故によって謎の死を遂げたという事も知りました。
 
1956年(昭和31年)6月25日の未明、関西への演奏旅行に向かう途中、東海道線刈谷駅付近で急行列車から転落したというのです。一般からの通報によって救出された時、
「ここはどこですか、私は列車から落ちたのですか? どこかへつれていってください。」
などと言えるほどまだ意識はあったそうです。それが事実なら、公演を拒もうとしたり、自殺を図ったりしたとは考えにくいように思われました。お家騒動が絡んだ事件性も否定できないものの、迷宮入りしたままのようです。宮城検校は、救急搬送された刈谷の病院で遂に帰らぬ人となりました。62歳でした。
 
彼の残した言葉「どこかへ連れて行ってください。」とは、病院へ運んでほしいという事だったのでしょうか?あんなに美しい旋律「春の海」を生み出す芸術家にとって、人との確執や騒動は耐え難く、心の安寧の場への避難を求めた言葉でもあったのかな、などと一人合点し妄想しています。
 
宮城道雄は、エッセイ「心の調べ」の冒頭で、こんなことを述べています。これこそ、彼の人柄や生き方を述べたものだと私は思いました。

「どんな美しい人にお会いしても、私はその姿を見ることはできませんが、その方の性格はよく知ることができます。美しい心根の方の心の調べは、そのまま声に美しくひびいてくるからです。声のよしあしではありません、雰囲気と申しますか、声の感じですね。
 箏の音色も同じことで、弾ずる人の性格ははっきりとそのまま糸の調べに生きてまいります。心のあり方こそ大切と思います。」

出典「水の変態」宝文館、1956年(昭和31年)8月1日


※画像は、クリエイター・みつばちまぁやさんの「お箏を習っています。」の1葉をかたじけなくしました。「六段」や「春の海」の調べが聞こえてきそうです。お礼を申し上げます。