No.737 コラムに見た記者の心
2009年(平成21年)4月7日の「編集手帳」(讀賣新聞)にぞっこんです。
普段、知ったかぶりをしてあれこれ書き散らしている身から出た錆で、読者の方からときにむずかしい質問をいただいて頭を悩ます。何日か前のお便りで、「過去から現在に至る人類の総数」を聞かれた◆存じません、では愛想がないので書棚を引っかき回し、アーサー・クラーク著「2001年宇宙の旅」の一節をコピーして返信に添えた。〈時のあけぼの以来、およそ一千億の人間が地球上に足跡を印した…〉とある。数字の当否は見当もつかない◆はがきをくださったのは、埼玉県内の若いお母さんである。じきに1歳を迎えるお子さんの寝顔を眺めていて、ふと、「この子の母親になれたのは人類で私ひとり…」と気づいたことで兆した問いという◆「一千億人のなかで一番」の幸せをかみしめるのか、育児の疲れを「一千億人分の一」という奇跡のような縁の糸で癒すのか、数字の使い道は分からない◆青い鳥の住処はチルチルとミチルの物語で知っている。知っていながらついつい忘れ、いつも不機嫌な顔ばかりしている。思い出させてくださって、ありがとう―返信に書き落とした1行をここに書く。
なんか、鼻の奥にボワッと熱いものを感じたコラムです。竹内政明というコラムニストの人間性まで伝わってきます。世界中のお母さんのお気持ちを受け止めた一文なのかなと思いますし、親となった男の気持ちの一端も代弁してくださっているように感じます。
35歳以上の初産婦を「高齢出産」(日本産婦人科学会)と呼ぶそうです。若いお母さん方とは10歳前後も年の差があるのでしょうが、「この子の母親になれたのは人類で私ひとり…」という愛おしさの籠もった感慨は、いっそう強く感じられるのかも知れません。
それにしても、「過去から現在に至る人類の総数」をコラムニストに教えてもらおうと手紙を書き送った若いお母さんの思い切りの良さにも、そんな質問に応えようとする執筆者の記者魂にも、いたく感動させられてしまい、年甲斐もなく文字がかすんでしまうのです。
2014年(平成26年)9月9日に、私は手作り小冊子を竹内政明さんに送ったことがありました。身のほど知らずというに相応しい振る舞いだったでしょうに、田舎教師のすることとゆるがせにせず、9月19日には早くも直筆の御返事を頂いた時の感動は、今も忘れません。
その竹内さんは、2015年7月半ばに病にかかり9月に復帰されました。その時のことを自らコラム「編集手帳」(9月5日付)にものしておられます。記者魂が、ますます冴え渡った文章だと思います。結句のおさめ方、整い方には、花の匂いさえしてきます。
作家の色川武大さんは生前、親しい友人との雑談で日ごろ感じている疑問を口にしたという。「どうして〝轢死〟には楽しいって字が入っているのだろう」と。ときに謎めいて、漢字は面白い◆疑問というほどの疑問ではないが、小欄もこの夏、病院のベッドでぼんやり考えた漢字がある。我が脳みそを襲った病名の一文字が、どうしてあの凜として美しいキキョウ(桔梗)のなかに含まれているのだろう、と◆私事にわたって恐縮だが、7月半ばに脳梗塞を患い、「編集手帳」の筆を同僚に託して入院した。今月初めに復帰したところである◆その声をテレビで聞いた方もあろう。〈それ、脳梗塞かも。すぐに救急車を〉。公共社会法人ACジャパンのCMである。小欄も職場から救急車で病院に搬送してもらったおかげで、発症から4時間以内に用いれば血栓の相当部分を溶かすことができるという薬剤が間に合い、軽症で済んだ。時間と勝負の病気であることをお伝えしたくて身辺雑記を書き連ねた次第である◆〈桔梗(きちこう)やおのれ惜しめといふことぞ〉(森澄雄)。「梗」の字に親しむのなら、やはり桔梗に限る。
「桔梗(きちこう)やおのれ惜しめといふことぞ」
森澄雄
1919年~2010年。長崎県出身の俳人。1970年、句誌『杉』を創刊、主宰。1995年、脳溢血で倒れ、左半身に麻痺が残り会話も不自由となりました。それでも、1997年より日本芸術院会員として活躍なさった方です。
※画像は、クリエイター・Tsuyoさんの、タイトル「暮らしに花を・・・」をかたじけなくさせていただきました。お礼申します。