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No.1302 ぐらり

詩人・吉野弘(1926年~2014年)が、一つの詩が生まれる前の心の軌跡について触れられた文章が『酔生夢詩』(青土社、1995年)にありました。

 あるとき、手紙の初めに「いかがお過ごしですか」と書き、「過」が「過つ」とも読むことに、ふと気付きました。そして「日々を過ごす」ことは「日々を過つ」ことかも知れないと思い、なんとなく、自分の日常を言い当てたような気分になりました。
 勿論、日本語に「日々を過つ」という言い方はありませんが、私の日常の過ごし方は「過つ」ことの繰り返しで、日頃の自分の姿にそっくりだなと思ったのです。(以下、略)

『酔生夢詩』(青土社、1995年)

そんな経験が、次の詩になったと言います。

  過
 日々を過ごす 
 日々を過つ
 二つは
 一つことか
 生きることは
 そのまま過ちであるかも知れない日々
 「いかが、お過ごしですか」
 とはがきの初めに書いて
 落ち着かない気分になる
 「あなたはどんな過ちをしていますか」と
 問い合わせでもするようで――

『酔生夢詩』(青土社、1995年)

私は抽象的で独りよがりな詩は苦手ですが、吉野弘の詩は平易なのに心に沁みます。小過・中過・大過を経験してきた私にとって、「過ちを繰り返しながらも、なんとか過ごしている」自分を、つくづくと感じています。それが、私です。私のために贈られた詩のように思えるほどです。そして、詩人の言葉に対する感性の豊かさに惚れ惚れしてしまいます。

たとえば、『吉野弘全集』(青土社、1994年)の「自然渋滞」の中にある次の詩、

 怏と快
 怏(おう)の中に快がある
 「怏」は、心楽しまぬこと
 「快」は、心楽しむこと

『吉野弘全集』(青土社、1994年)

には、心底シビレました。

確かに、「怏の中に快」の字があります。「怏」とは、不平不満を託ちたくなる嫌な気持ちですが、人生の途上で無数に現れるものです。しかし、じっと見つめると、不快な中にも快を見出すことは出来るのではないかと言う「切り替えの発想」もすすめているように思われます。同じ時間をどんな気分で過ごすか、問われているのは心であり、生き方考え方なのではないか?そんな問いかけも聞こえてくるのです。

「怏の中に快がある」
少し大げさかもしれませんが、人生観がぐらりと揺らぐほど感動した詩でした。

  
※画像は、クリエイター・「STS_Photo"ismあなたに魅せたい写真があります」さんの、「ほのぼのとして話しかけ誘う感じがいいです。」の1葉をかたじけなくしました。お礼を申し上げます。