No.1162 陽気に送ってもらった人
四半世紀近くも前の学級通信「花自ら紅」の中で、パンフレットの「社会保障NOW」のコーナーにあったお話を紹介していました。改めて読んでみると感動至極です。お付き合いくださいますか?
「私の住所録から、また一人名前が消えた。塾の教師である。社会を教えていた。教え方がうまく、子供との付き合い方がざっくばらんなので、この道では名を売った人である。
初めて彼に会ったのは三十五年前のことである。新聞記者になって教育問題を受け持っていたので、人に紹介されて学校に訪ねた。受付で来意を告げたら、校長室に通された。彼は同僚の教師と麻雀をしていた。三十分ほど待たされ、あいさつもそこそこにいきなり麻雀論議を始めた。彼は校長の許可を得ていて、校長は不在である上に、放課後も終わりに近く子供を帰した後であることを挙げ、さらに碁将棋をするのとどこが違うのか、とその正当性を並べた。今、思い出せばけんか腰でやりあったようでもある。しかし、不快感はなかった。豪傑肌のユニークな教師であるという印象を受けた。
よく引っ張り出されて子供のことで付き合わされた。非行少年の問題が多かった。少年院送りを翌日に控えた子供と一緒に三人で、動物園に行ったこともあった。当時でも並みの教師ではなかった。純情一徹である。
学校教師を辞めるとき、報告にきた。教頭試験を受けろと攻められているが、管理職にはなりたくない。チョーク1本で通したい。それには塾に行くしかない。退職金では損になるが、塾教師には定年がないから、金だけで言えばどっこいどっこいだと言った。
葬儀が終わり、親族のあいさつで、『万歳三唱で締めくくりたい』という提案があった。神田生まれの神田育ちの江戸っ子で、暗いことが嫌いだから、陽気に送りたいというのである。昔の教え子の音頭で『バンザイ』の声が香煙を揺るがせた。長生きする人が多くなったせいか、式場がきれいになったためか、高齢者の葬儀にしめっぽさが薄れてきたような感じがする。しかし『バンザイ』は初めてである。シャレた旅立ちである。お祭りのように手締めで終える時代がくるかもしれない。」
兼子昭一郎という方の「シャレた旅立ち」というエッセーです。いかがでしたか?死者は「黄泉路への門出」または「極楽浄土への再生」あるいは「天国への凱旋」をするのだろうと思います。
19世紀末から20世紀初頭にかけて米国ルイジアナ州ニューオーリンズの黒人たちによって生まれた音楽は、まさに、
「生きている間は人種差別を受け、こき使われ、身も心もボロボロになって捨てられた。だが、良かったなあ!これでお前は自由だ。怒りも苦しみもなく、何者にも縛られずに永遠の死を生きることが出来るのだ。みんなで盛大に祝おう!」
という鎮魂と祈りと歓喜が籠められているのだと聞いたことがあります。
この話を詠んで、その人物のお別れにふさわしい葬儀は、生き方を物語っているように思いました。
「もりもり盛りあがる雲へあゆむ」
種田山頭火(1882年~1940年)の辞世の句だそうです。
※画像は、クリエイター・猪浦直樹さんの新潟市での入道雲の1葉をかたじけなくしました。種田山頭火の句が重なるようです。お礼を申し上げます。