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No.1210 心と言葉

自然科学は日進月歩(いや、分進秒歩?)のごときですが、人の心はどうなのでしょう?
 
「様良う、すべて人はおいらかに、すこし心おきてのどかに、おちゐぬるをもととしてこそ、ゆゑもよしも、をかしく心やすけれ。もしは、色めかしくあだあだしけれど、本性の人がら癖なく、かたはらのため見えにくきさませずだになりぬれば、憎うははべるまじ。」
 (良い雰囲気で、全てにおいて女房は穏やかに、少しは心に余裕を持ち、落ち着いていることを基本にしてこそ、その品格も風情も魅力となりますし、安心して見られます。少々、風流めいた人であったとしても、その人本来の性格が素直であって、周囲に対して付き合いにくい態度さえとらなければ、憎まれるまでには至らないものなのです。)
 
『紫式部日記』の寛弘5年(1008年)12月の記事には、紫式部(970年代?~1010年代?)の人生訓、女房としての処世訓が読み取れます。人の心のありようを述べたくだりですが、現代社会でも通じる視点であり、昔も今も心の底流は変わらないことを教えてくれます。1000年も前の人の本音ですが、自分ファーストで、他人を貶めたり策を弄したりする人は、やはり、最後には疎まれてしまうのでしょう。
 
その150年後に生きた建春門院(平滋子、1142年~1176年)は、彼女に仕えた女房の作品『健寿御前日記』(『建春門院中納言日記』『たまきはる』とも)の中で、こんな話を日々していたそうです。女房たちを束ね敬愛される立場として、厳しくも愛情ある言葉です。
 
「女はただ心から、ともかくもなるべきものなり。親の思ひ掟(おき)て、人のもてなすにもよらじ。我が心を慎みて、身を思ひ腐(くた)さねば、おのづから身に過ぐる幸ひもあるものぞ」
(「女はただただ気立てによって、何とでもなるものなのですよ。親の心積もりや、人の扱いに因るものではありません。自分の心を慎んで、自分を卑下しなければ、自然と身に余る幸せだってあるものよ。」)

ブログのコマーシャルになりますが、「るる古典」さんの「運命に愛された女院【建春門院の話・1】」(2023年8月17日)に、漫画仕立てで読みやすく分かり易く描かれています。私は感動的に読みました。お手数をおかけしますが、ご一読いただければ幸甚です。

今世紀は、男女共同参画をさらに推し進め、多様な性のあり方も含め、誰もが働きやすい社会を目指し実現することが叫ばれています。時代が移り変わり、世界観も価値観も大きく変化していることを強く感じます。
 
二人の女性の言葉は、平安時代の中期から末期にかけての1つの人生観です。違いはあるものの、わたしたちにとって、過去からのラブレター、過去からのアドバイスのように思えます。温故知新。先人たちの知恵を、新時代に取り込み融合させ発展させることは無為なことなのでしょうか?心の片隅に根付かせておきたい言葉のように思います。
 
AIが肩で風を切り、世界を席巻し、人々の上を行く能力を発揮しても、つまるところ、二人の女性の遺した言葉の重みに耐えることは出来ないのではないでしょうか。なぜなら、そこに「慈愛」と「宥恕」の心があるからです。それこそ、人間らしさなのでしょう。


※画像は、クリエイター・わたなべ - 渡辺 健一郎 // VOICE PHOTOGRAPH OFFICEさんの「十二単」の浮き出て来るような1葉をかたじけなくしました。お礼を申し上げます。