No.1281 二人目に感謝!
明治30年代に生まれた祖父・松宇と祖母・ゑいには、子供が5人(2男3女)おりました。そのうち、長男を懿(あつし)、次男を慧(さとし)と言いました。
父・懿は、長男を公(ただし)、次男の私を仁(ひとし)と名付けました。それゆえ、松宇爺さは、「ややこしや、ややこしや!」と思ったのか、「ええい面倒くさい!」と思ったのか、私を「仁」と呼ぶこと少なく、「あつし!」「さとし!」「ただし!」とよく呼び間違えました。圧倒的に「さとし!」と呼ばれたのは、次男繋がりだったからでしょうか。
慧叔父さんは、今から85年近くも前に高校生でしたが、成績優秀で名をあげ、他クラスから顔を見に来るほどだったそうです。松宇爺さの自慢の息子だったのでしょう。ところが、私は、成績優秀な人の顔を見に行く方の不出来な孫でしたから、その名を呼ぶにも値しないくらいの気持ちがあったのかもしれません。私は「さとし!」だったのです。
子供の頃は、実の家族に名前を間違えられることが嫌でした。「さとし!」と呼ばれると、間髪を入れず「ひとしじゃ!」と言い返すのが、私の精一杯の反抗でした。しかし、企業戦士の名前に相応しい、家庭は妻に任せっきりの「仕事大事・仕事一途・仕事命」だった「さとし」叔父さんは、50代で泉下の客となりました。
それ以後、松宇爺さから「さとし!」と呼ばれても、私は素直な気持ちで返事することにしました。どこかに叔父さんの幻影でもとどめているのなら、たとえ呼び違えであっても「それもまた良し!」だと思ったからです。
父も叔父も50代半ばという若さで病を得、幽明境を異にしました。私たち兄妹は、何としても「親父の年齢越えをして恩返ししよう!」という合言葉を胸に、ささやかな人生でも何とか生きてきました。それぞれの家族の支えがあって、何とか恩返しが叶った時は、胸にグッと来るものがありました。
父や叔父との永訣から50年近くが経ち、「芝尾仁」は「ひとし」と呼ばれることなく「尾仁」(オジン・お爺)と呼ばれるようになってしまいました。一体、「仁」とは、何だったのでしょう?
昭和天皇(裕仁親王)のお誕生日は4月29日でした。昭和28年4月29日生まれの私だったので、両親は、そのお名前だけでも肖れればと、「仁」の一字を戴いたといいます。そんなことも可能にした戦後であり、篤き親心だったのだろうと想像します。
今から32年前のことになりますが、大分合同新聞のコラムニストで南里俊策という方が、「仁」についてこんな印象的なことを書いておられました。
「『仁』は『人偏』と漢数字の『二』から成る。相手という二人目がいて初めて『仁』になる訳で、一人では『仁』にはなれない。」
という韓国人教授説を引用しながらの説明でした。(平成4年11月21日記事)
その短い言葉は、私の心に深く刻まれました。同僚や、畏友・知友や、生徒・保護者や、家族という二人目の相手を得て、ようやく「仁」になれるのだと教えられた時、松宇爺さの「さとし!」も「仁」となるために必要なことだったのだなと思い至りました。
今日も、いろんな二人目に支えられて、私は生きています。
※画像は、クリエイター・西田親生@D&Lさんの、「孔子公園の花々・・」の1葉をかたじけなくしました。寄り添うような百日草は、二人目に出合っているようです。お礼を申し上げます。