見出し画像

No.1293 さびしさの系譜?

西行(1118年~1190年)は、平安末期から鎌倉初期にかけて生きた歌人であり真言僧です。俗名は「佐藤義清」といいましたが、唐突に23歳で出家しました。友人の突然の死や失恋が原因だったと言われています。

出家後は、京の東山・嵯峨のあたりを転々とします。陸奥や中国・四国の諸国を行脚し、30歳の頃、高野山に庵を結んで仏者として修行したそうです。
 
その西行の歌に、『新古今和歌集』巻6・冬歌・627番の歌があります。
「寂しさにたへたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里」
(私と同じように寂しさにたえている人が他にもいるといいなあ。いたら、その人と庵をならべて一緒に暮らしたいものだ。この冬の山里で。)

西行は、4歳の我が娘を縁側から蹴落として出家しています。覚悟を決める非情な態度だったのかなと推測します。以来、ひたすら寂しさに堪えていることが、「またもあれな」の言葉によく表れています。
「自分と同じような寂しさにじっと堪えている孤独な世捨て人がいてくれたらなぁ。」 
という願望を述べているように見えながらも、その実は、
「私のように孤独に堪えているような人が、他になどいるはずがないよ。」
と言わんばかりです。

「庵ならべむ冬の山里」
には、同じ境遇の修行者を探し求めているのではなく、これまでも、そして、これからも孤独に堪えて生き抜こうという決意のようなものの裏返しではないかと感じてしまいます。

そんな時、ふと思い出すのは、若山牧水(1885年~1928年)の歌です。
「幾山河越えさりゆかば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅行く」
(いったいどれだけの山や川を越え去ってゆけば、この寂しさが終わる国にたどり着けるのであろうか。 行けども尽きない寂しさの国を 今日も私は旅している。)
1907年(明治40年)に、中国地方を旅した時の、牧水22歳の頃の作で、歌集『海の声』(1908年)と『別離』(1910年)に収録されているそうです。

若き牧水が秘めた、寂しさ・孤独・満たされない気持ちが、痛いほど伝わってきます。多くの人々に共感されるこの歌は、「寂しさが果てる国を追い求めながらも、いや、ないに違いない」という反語に聴こえます。しかし、自分はその道を進もうとする姿勢が見えます。750年後の牧水も、西行の「寂しさ」の系譜の延長線上の歌人なのでしょうか?

また、俳人・山口誓子(1901年~1994年)の
「学問の寂しさに堪へ炭をつぐ」
の句にも、世界観は違うものの似通った「寂しさ」を覚えます。

この句は、1932年(昭和7年)の句集『凍港』に所収されているそうです。大学で法律の勉強をしていた頃の歌でしょうか。「炭をつぐ」とは、手元の火鉢に炭を足して暖を取りながら学問に勤しんでいる姿でしょう。

誰も知らず、誰にも気づかれずに、深更に及んでも一人黙々と学問に打ち込む姿があります。未来の自分を夢見ながらも、その厳しさ、孤独な寂しさを句に籠めたのでしょう。私には、この炭が、目の前の暖を取るためのものだけでなく、心の情熱もつぎ足すためのものであるように思えます。

独り寂しく厳しい修行を課す西行と、ひとり寂しさにどっぷりつかりながら「果てなむ国」を追い求める若山牧水と、一人寂しく厳しい学問に打ち込む山口誓子とは、800年の時を超えて「庵を並べる」ことの出来る友になれるのではないかと勝手に想像しています。日本人の寂しさの系譜でしょうか?


※画像は、クリエイター・みかんさんの、「伊東旅行の思い出」の1葉をかたじけなくしました。お礼申し上げます。