No.253 襟を正したくなる思い
「友」
どうしてこんな解かりきったことが
いままで思いつかなかったろう。
敗戦の祖国へ
君にはほかにどんな帰り方もなかったのだ。
―海峡の底を歩いて帰る以外。
高安敬義君病死の報が齎(もたら)らされたのは終戦に間のない昨年七月末のことである。高安君は京大哲学科の出身、卒業後出征までの数年を洛北等持院にあって詩作に専念、木の葉のやうに素朴でさゝやかな、併し(しかし)その人柄のやうに無類の美しさを持った二冊の詩集を遺してゐる。昭和十九年応召、その折田辺元先生よりシラーの詩集を贈られたことは君の何よりも大きい悦びであった。それから一年余君の悲報に接した日、私は日頃君を大きい愛情をもって見守り、常に何くれとなく暖かく導かれていた久松真一先生を妙心寺にお訪ねすると、先生はすでに君の訃に接してをられ、塵ひとつとゞめぬその書斎には、君の位牌がまつられ、床には君が出征の折、書き遺して行ったといふ短冊がかけられてあった。〝この夏や汗も血もたゞに弁(べん)へず〟君が幾度か立った大陸の戦火よりなほ激しいものがそこにはあった。
上掲は、『天平の甍』で有名な小説家・井上靖が1946年(昭和21年)5月、京都大学新聞社『學園新聞』第5号に発表したものだそうです。時に、靖は39歳でした。
戦後76年目の終戦記念日を迎えました。それは、全国戦没者慰霊の日でもあります。「友」高安敬義は、昭和19年5月15日戦死。享年30。
「私がこれまでに知った一番頭のいい、しかも純真な友達であった」
と井上靖が評した親友でした。川端康成が1968年(昭和43年)にノーベル賞受賞した時、
「高安君が生きていたら、彼が先に受賞していただろう」
という趣旨のことを靖に言わしめたほどの人物だったそうです。
その才知溢れる高安敬義は、中国河南省信陽県長台関で戦死しました。「草むす屍」となった彼の魂は、深くて暗い海峡の底を歩いて祖国に帰る以外にないのでしょうか。そして、幾万もの兵士の魂は、今も海峡を彷徨っているのでしょうか。望郷に悲しみの声を上げながら…。
1945年(昭和20年)9月2日、東京湾に停泊した戦艦ミズーリ号の甲板上で降伏文書に署名をしたのは大分県杵築市出身の外交官・重光葵(まもる)です。彼は、外務大臣に任じられ、日本代表として降伏文書に調印するという屈辱的な任務を拝命しました。不名誉この上ない映像を世界にさらされ、長くその名を後世に刻まなければなりませんでしたが、
「これは不名誉の終着点ではなく、再生の出発である。」
という気概を持って臨んだと言います。調印式を前に、重光はこんな句を詠んでいます。
「願わくば 御国の末の 栄え行き 我が名さげすむ 人の多きを」
(日本は負けてしまったが、降伏文書に調印した恥ずべき自分が、いずれ多くの日本人から蔑まれるような栄えある国になってほしい。)
それは、重光の愛する日本国・日本人に対する「期待と祈り」が詠み込まれた魂の歌だと思います。
その重光葵は、1957年(昭和32年)1月、狭心症の発作によって、69歳で他界しました。重光は、その名「葵(まもる)」の通り、国を護り、信義を守り続けたように思います。その人の没後64年目の今年、あなたの目に映る日本は、どんな表情をしていますか?