No.615 あなたの「楽しみ」は何ですか?
「たのしみは 春の桜に 秋の月 夫婦仲良く 三度食ふめし」
これは、第五代目市川團十郎(1741年~1806年)の歌なのですが、狂歌集『吾妻曲狂歌文庫』(あずまぶりきょくきょうかぶんこ、1786刊行)に載っているそうです。老境に差し掛かかった私には、夫婦が仲良く食事しながら団居の時を過ごすというのは、いかにも美しくて尊い姿が思い浮かび、歌の世界に心がいざなわわれるのです。
江戸時代は一日に二食だと思っていましたが、中期の1700年代も半ばを過ぎると、様々な産業の生産性が高まり、流通が盛んになって来たために、労働者たちの腹も空いたのでしょう。商家などで、だんだん三度の食事が定着してくると、庶民たちも右に倣って三度の食事をとるようになりました。団十郎の歌は、そんなことの証左にもなるのです。
さて、「楽しみは」というと、幕末に生きた国学者で歌人の橘曙覧(たちばなのあけみ、1812年~1968年)の「独楽吟」(どくらくぎん、1878年)というユニークな歌の一連を思い浮かべます。赤貧に甘んじ、家族の暖かさや、さり気ない日々の喜びや驚きを素直に詠んだものですが、52首のすべてが「楽しみは」で始まるのです。少し時間をいただいて、彼の世界に遊んでみてはいかがでしょうか。
1.たのしみは草のいほりの筵(むしろ)敷(しき)ひとりこゝろを靜めをるとき
2.たのしみはすびつのもとにうち倒れゆすり起(おこ)すも知らで寝し時
3.たのしみは珍しき書(ふみ)人にかり始め一ひらひろげたる時
4.たのしみは紙をひろげてとる筆の思ひの外に能くかけし時
5.たのしみは百日(ももか)ひねれど成らぬ歌のふとおもしろく出(いで)きぬる時
6.たのしみは妻子(めこ)むつまじくうちつどひ頭(かしら)ならべて物をくふ時
7.たのしみは物をかゝせて善き價(あたひ)惜(をし)みげもなく人のくれし時
8.たのしみは空暖(あたた)かにうち晴(はれ)し春秋の日に出でありく時
9.たのしみは朝おきいでゝ昨日まで無(なか)りし花の咲ける見る時
10.たのしみは心にうかぶはかなごと思ひつゞけて煙草(たばこ)すふとき
11.たのしみは意(こころ)にかなふ山水のあたりしづかに見てありくとき
12.たのしみは尋常(よのつね)ならぬ書(ふみ)に畫(ゑ)にうちひろげつゝ見もてゆく時
13.たのしみは常に見なれぬ鳥の來て軒遠からぬ樹に鳴(なき)しとき
14.たのしみはあき米櫃に米いでき今一月はよしといふとき
15.たのしみは物識人(ものしりびと)に稀にあひて古(いに)しへ今を語りあふとき
16.たのしみは門(かど)賣りありく魚(うを)買(かひ)て煮る鐺(なべ)の香を鼻に嗅ぐ時
17.たのしみはまれに魚煮て兒等(こら)皆がうましうましといひて食ふ時
18.たのしみはそゞろ讀(よみ)ゆく書(ふみ)の中に我とひとしき人をみし時
19.たのしみは雪ふるよさり酒の糟あぶりて食(くひ)て火にあたる時
20.たのしみは書よみ倦(うめ)るをりしもあれ聲(こゑ)知る人の門たゝく時
21.たのしみは世に解(とき)がたくする書の心をひとりさとり得し時
22.たのしみは錢なくなりてわびをるに人の來(きた)りて錢くれし時
23.たのしみは炭さしすてゝおきし火の紅(あか)くなりきて湯の煮(にゆ)る時
24.たのしみは心をおかぬ友どちと笑ひかたりて腹をよるとき
25.たのしみは晝寝せしまに庭ぬらしふりたる雨をさめてしる時
26.たのしみは晝寝目ざむる枕べにことことと湯の煮(にえ)てある時
27.たのしみは湯わかしわかし埋火(うづみび)を中にさし置(おき)て人とかたる時
28.たのしみはとぼしきまゝに人集め酒飲め物を食へといふ時
29.たのしみは客人(まらうど)えたる折しもあれ瓢(ひさご)に酒のありあへる時
30.たのしみは家内(やうち)五人(いつたり)五たりが風だにひかでありあへる時
31.たのしみは機(はた)おりたてゝ新しきころもを縫(ぬひ)て妻が着する時
32.たのしみは三人の兒どもすくすくと大きくなれる姿みる時
33.たのしみは人も訪ひこず事もなく心をいれて書(ふみ)を見る時
34.たのしみは明日物くるといふ占(うら)を咲くともし火の花にみる時
35.たのしみはたのむをよびて門(かど)あけて物もて來つる使(つかひ)えし時
36.たのしみは木芽(きのめ)煮(にや)して大きなる饅頭(まんぢゆう)を一つほゝばりしとき
37.たのしみはつねに好める燒豆腐うまく煮(に)たてゝ食(くは)せけるとき
38.たのしみは小豆の飯の冷(ひえ)たるを茶漬(ちやづけ)てふ物になしてくふ時
39.たのしみはいやなる人の來たりしが長くもをらでかへりけるとき
40.たのしみは田づらに行(ゆき)しわらは等が耒(すき)鍬(くは)とりて歸りくる時
41.たのしみは衾(ふすま)かづきて物がたりいひをるうちに寝入(ねいり)たるとき
42.たのしみはわらは墨するかたはらに筆の運びを思ひをる時
43.たのしみは好(よ)き筆をえて先(まづ)水にひたしねぶりて試(こころみ)るとき
44.たのしみは庭にうゑたる春秋の花のさかりにあへる時々
45.たのしみはほしかりし物錢ぶくろうちかたぶけてかひえたるとき
46.たのしみは神の御國の民として神の敎(をしへ)をふかくおもふとき
47.たのしみは戎夷(えみし)よろこぶ世の中に皇國(みくに)忘れぬ人を見るとき
48.たのしみは鈴屋大人(すすのやうし)の後(のち)に生れその御諭(みさとし)をうくる思ふ時
49.たのしみは數ある書(ふみ)を辛くしてうつし竟(をへ)つゝとぢて見るとき
50.たのしみは野寺山里日をくらしやどれといはれやどりけるとき
51.たのしみは野山のさとに人遇(あひ)て我を見しりてあるじするとき
52.たのしみはふと見てほしくおもふ物辛くはかりて手にいれしとき
分かり易くて読み易く、もう腹を抱えて笑ったり、なるほどなあと感心させられたり、この橘曙覧の人となりに魅せられてしまいます。中でも、6番・17番・18番・19番・21番・24番・28番・29番・30番・39番などの歌に口角が上がりました。
立川昭二著『江戸 草草紙』(ちくま学芸文庫、1998年)によると、江戸時代後期の平均寿命は、65、2歳だったそうですが、橘曙覧は、1868年(慶應4年)8月28日(=1868年10月13日)に56歳で死去しました。その10日後に「明治」に改元されたのです。