No.425 「こんじょう」の梅の木
「梅一輪 一輪ほどの 暖かさ」
作者は、江戸時代前期の俳人服部嵐雪(らんせつ、1654年生~1707年)です。ところで、この句の「一輪ほど」の「ほど」の解釈によって意味が分かれるらしいのですが、皆さんは、どのように解釈しておられますか?
懐かしく思い、40年前の高校時代に使っていた「古語辞典」(旺文社)で引いてみました。
「寒梅のつぼみが一つぽかっとひらいた。赤みのさしたその一輪をながめていると、冬とはいいながら、やがて近づいてくる早春の暖かさが、ほのかに感じられることだ。」
季語は「寒梅」で「冬」としてありましたが、「梅」の句なら「春」の季語となるので、
「(なお、『梅が一つ一つひらいていくにつれて暖かさがます』とする解釈もある)」
と付け加えることも忘れていませんでした。
実は、この句は、服部嵐雪の一周忌の追善集『遠のく』に載せられており、「寒梅」の題があるといいます。したがって、嵐雪としては、寒い冬の一日の中、春の訪れを予感させるような一輪の梅の開花に、「ほのかな程度」の暖かさを感じたと言いたかったのかもしれません。その意味で、一輪一輪梅が開くのにつれて、「だんだん」と日々暖かくなってゆくよという解釈とは、文字通り温度差があるということのようです。
先日、散歩がてら、久々に近くの川に棲む錦鯉を見に行きました。午後、暖かくなっていたからか川面を泳いでいました。川の両岸の土手には、地区ボランティアの人々が数年前に植樹した梅の木が数メートル間隔でずらっと植えられており、幹は4~5cmになっています。昨年の暮れに、数人の男性が草刈り機で伸びきった土手の枯れ草を刈っていました。しかし、手元を誤ったのか、1本だけ草刈り機の刃先が梅の木の幹に深く切り込み、首の皮一枚だけつながったような格好で倒れていました。「今生」の別れとなってしまうのか、春まで持たないかもしれないなと思いました。
ところが、九分九厘助かるまいと思われる状態でありながら、「どっこい、生きてるぜ!」とでも言いたげに一輪の白い花を咲かせたのです。思わず目を見張りました。そして、寒風に負けず、身体の一部だけで生きる梅の木の強い生命力に感動しました。「今生」ではなく、「根性」の梅でした。どのくらい花を咲かせるのか、どこまで長らえてくれるのか、錦鯉と同じように目が離せない存在となっています。