「猫を棄てる」を読んで
前略 村上春樹 様
ノルウェイの森を嵐が吹き抜け、神のこどもたちが踊る行間に寄り添ううち、とうとう白い猫に会えた。多少小石に躓くことがあっても、見失う時があっても、あなたはやはり私の知っているあなたでした。
ずっと前、私がまだ子どもの頃に経験し、感じ、心の奥深くにしまい込んでいたことをあなたはいとも簡単に言い当ててしまうのです。記憶の淵にしがみつく、それは自分にしかわからない甘美でちいさな苦しみだと。
猫を棄てに行ったのは、私の母と兄。私ではなく父でもなかった。4匹の猫を段ボール箱に入れるとき、警戒心の強い彼らに引っかかれて傷だらけになりながら、母と兄はその段ボール箱を白いトヨタのカローラバンに乗せて堤防を西へ西へと走ったそうだ。やがて川幅がさらに広がり、もっと大きな川と交わっているところ辺りに棄ててきたと言う。
それにしても、兄は母の言うことを聞いて何かにとりつかれた様に、黙々と何の疑問も抱かずに猫を箱に詰めこんで、捨てに行ったのだろうか。それも今ではもうよくわからないけれど(母は他界し、兄との会話にその話題は出ない)。
が、しかしその猫たちは、まさしく彼らが乗せられた白いトヨタのカローラバンよりも早く家に辿り着き、はぁはぁ息を切らしながら、マラトンの勝利を伝える勇者のようにむしろ胸を張って、お母さん、お兄さんお帰りなさいと待ち構えていたのだから(ただし、彼らの走った距離はマラトンのそれよりかなり短く、「我ら勝てり」などと言うはずもなく、バタンと倒れて二度と起き上がれなかったわけでもなく、その後何年も元気に暮らしていたのだから)。
そして、驚きと感心と安堵が、我が家のすべてを覆いつくしたのだ。
そのことは長いあいだ我が家の暗黙の了解であったことに疑いの余地などないし、それは紛れもない真実なのだ。
広げたらもう畳めないくらいの、猫と我が家の記憶の1ページではあるが、猫を棄てに行ったという事実以外は誰も触れない。
そんなときも、私の父は寡黙な人だった。
その呼吸とたまに発する珠のような言葉で私は多くを学んだ。
あなたの父は語らず。
あなたは父を語らせず。
ノモンハンの皮を剥ぐ男たち。井戸の底にある恐怖ではあるが生へと紛れもなくつながっているはずの安堵と隣り合わせの絶望的に安らげるかもしれない場所で。
だから、あなたも語ってはいないし、父親に対する何か自分でも抗いようのないものがそうさせたのだと示すことで、我々に相変わらずの謎解きをさせようとしているのですね。
そして、あなたは言い当てる。
エレベータの階と階の間から帰ってこられたこと。鏡の中の私が本当の私にとって代わる瞬間、闇に覆われてしまいそうになりながら、振りほどいて戻ってこられたこと。そして、この棄てられたけれど戻ってきた猫のこと。 それらはどれも私の上に起きた真実の出来事。 あの庭の松の木に上った白い猫。猫であって、猫でない。それは象徴としての猫。
唯一、あなたと父親を結ぶものとしての。
虚ろなままでいることへの焦りから、結び目がほどけそうでほどけないことをわかっていることすら、曖昧にしておく。
生と死の切り替わるところ、見えそうで見えない、命を繋ぐものとして。
あなたの紡ぎだす物語は私の奥底で長い間私を支え続け、生きることへの勇気を与え、それが愛の日々だと言えるなら、その水面の月が変わらず自分の中にあり続けることを肯定してくれる。そして、その井戸の中に下りていくことを許し、自分を受け入れることを教え、生と死が私のリュックの中にそっと納まっていることを気づかせ、それでも生きて、未曾有の明日へ踏み出すことへと奮い立たせる。
人としてあり続けるための標として、丹田のあたりに手をあて今一度思い返してみる。たくさんの記憶の欠片を指先やまつ毛に宿らせ、知らず知らずに零してきたけれど、記憶の淵のその白い猫の存在を自分自身に問い続けることで、すべてをぶちまけることもなく、さらに遠のく記憶としての父が多くを語らず、また、自分自身が父に語らせないことを思い知ることになろうとも。
それでも、あり続ける。
繰り返し、あり続けることへの謎解きをするために。
かしこ
#猫を棄てる感想文