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私は何者か、502


知らないというのも、知るのうちに含まれるような気がする。

知るの一部であるような。

死が生の一部であるように。

知らないのに知っている。見たことあるような、聞いたことがあるような、行ったことがあるのかも、触ってみたら、ほら、なんて、デジャヴなのか。いや、それとも夢で出会ったの、とか。


歳をとるということは、今の出来事にずっと昔の体験を呼び起こして、シンクロさせることができるようになることでもあります。

雅て言えば、貝合わせ。冷泉家ではあるまいに、無論無理。もともと、ひとつのものだったのに、離れ離れになって、美しく彩られ、そしてまた、誰かの手によって、何らかの原因で、再び目見える。

その、瞬きのために、生きている我らである。

カチリ。

と、音がして、符牒が合う。


離れて久しい、その睫毛。剥製の白熊の二度とふたたび交えることのない、筈の、両の瞼のかわいい睫毛よ。

都会の片隅、午前0時を回る頃、歩き出したのは私ではなく、時の方だ。

その瞼が一瞬交わるところを、見たのか、見えなかったのか、いや。見なかったのか。永遠に、わからぬ。


それらを、想像してみる。


生きてあるそのことの、わずかの、ほんの、ちいさな隙が、我らの運命に光を与え、翳をつくる。


自分自身が、自分自身へ呼ばれ、抱かれるような。


知らないのに、知っている、日々を、我らは紡ぐ。


わたしは何者か。


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