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私は何者か、434
週末の家へ。ノルウェー産サーモン。美しい薔薇色。それから、アロエヨーグルト、R1、ベビーリーフ、饂飩。カマンベールチーズ。自分の食べたいものを、さっさと買って。で、驚いたのが、彼とかぶっているもの。サーモンと、アロエヨーグルト。嬉しいのと、笑っちゃうのと。ビールをまずは2本。彼の買ってくれていた河豚で、てっちり鍋を作って、サーモンと自作の大根のケン、ベビーリーフ。
互いの親族と過ごすお正月を経て、私たちの週末は自由である。
どうなってもいいやと、思っては、後悔したり、肯定したりと、人の世の縁に苦しめられるのは本望ではなく、さよならだけが人生で、生きてるうちが花なのであってと。そのとおり。私の好きなビールを飲んで、好きなものを食べて、それで、互いに顔も知らず、それでも、思っていて、思われているという、不自然な、まったく、自然な流れのなかで、目に見えぬものが、本当に、ここにあるのだ。ここは、不可侵領域である。いや、例えば、誰かか足を踏み入れたとしても、その足の下には、その足を支えるだけのなにものもないのである。その場で生きるためには、その足の下の支えを必要としないことであり、支えがなかったとしても、その場に立ち、歩むことのできることを指すのであろう。
わたしは、その短くも永すぎる、生きているという実感において、この、まるで、余りの刻を、このように芳醇に快活に実践的に充実した、土の香り、雨のにおい、風の容赦ない鞭のもとで、希望峰などではなく、さりとて、内灘の砂丘を思ふ。
内灘。
悲しすぎて、あたまが、まるで、真っ白である。そのctスキャンの画像のように。
なにもできぬ自分に、相変わらずの、自己愛であり、許してほしい。
我とてわずかな刻の差異である、待てる時間を慰めよう。
わたしは何者か。