実は、「つまんない」は強い✌️
2021.7.19 学童保育
外遊びをしていた時のこと
Mちゃんが「つまんなーい。早く帰りたぁーい!」と言った。大人が「じゃああと5分したら帰りまーす」と言った。そのすぐ後に、Sくんと僕と砂をチョコレートに見立てた世界観で遊びが始まる(※)と、「やっぱ帰りたくなーい。この遊びずっとしてたい。お迎え来るまでここで遊んでたい。」と言っていた。(「つまんない」と「たのしい」ってそのくらいちっちゃなきっかけで行き来できちゃう感情なんだろうね。)結局帰る時の集合に、Mちゃんは一番最後に集まっていた。
※Sくんが僕に「みて!チョコレート」と言って掘った土を見せてくれた。僕がMちゃんに「チョコレート、食べる?」って見せて言うと、「チョコレートじゃないじゃん。それ土じゃん」みたいになって、そこから「わたし(Mちゃん)もやるー」のように混ざり合っていった。そこから、土を木で掘って、その土の塊を木の棒で叩いて砕くという遊びが始まった。
砂を砕く時に「もっともっと!」って言いながら、『如何に早く砕けるか』だったり『如何に細かく砕けるか』だったり『砕いた砂をどれだけ集められるか』や『集めたらどうなるのか』だったりと、あらゆる冒険(未知を既知に変えていく体験)があったと思う。大きなものを小さく砕いて扱うという抽象的な行動の実体験になったのだろう。
なぜこの遊びに夢中になれたのか。
自然の偶発性もあるだろうが、逆に「つまんない」という状態だったからこそ(期待値が下がり)、小さなことでも楽しさを感じられる敏感肌になれたのではないか。『ヒマが遊びを生む』とはまさにこのことで、「遊び」と「退屈」がとても密な関係にあるということがわかる。
「つまんない」という状態をなめちゃいけないし、だからって「楽しませなきゃ」と躍起となる必要はない。ただ、放置すれば良いってわけじゃなくて、気にかける、心をつなげる等の行動は心理的安全性的にも必要かもしれない。場合による。
子どもの欲求に従ってるだけでは良い遊び場にはならないということ
もし「早く帰りたい」と言われたタイミングで、「じゃあ帰ろうか」とすぐに帰っていたら、上のような土での冒険、体験は生まれなかった。大事なのは大人が設定した時間、空間の中であれ、個々人が如何にその瞬間瞬間を「楽しもう」と前向きに行動していけるかであり、まず自分自身がその第一人者的な行動をしていく事だと思っている。(枠自体を変えられるのも大人の立場ゆえである。)シンプルに言うと「自ら楽しもうとするマインド」である。「楽しい」だったり、生き生きだったり、ワクワクって感情は伝播していく。人から人に伝わる。そして勝手に遊びは始まっていく。その火付け役的な立ち回りは誰にでもできるのではないか。
つまりは、自ら楽しんじゃうことが遊び場に立つ人間としてとっても重要だという至極当然な結論になる。