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【04「山の頂きの蔵へ」宮崎県諸塚村·園の露・川崎醸造場】石原けんじ大佐焼酎論集
初出:2002年3月5日(記載の内容は当時の状況に基づいている事をご了承下さい)
はじめに
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俳人・種田山頭火が「分け入っても分け入っても青い山」と詠んだ九州山地。その急峻な山地と美しい森に抱かれた村が諸塚村だ。村に沿って流れる耳川は絶壁を伴う深い谷間を作り、山と谷の間の傾斜地に人がへばりついて住んでいる。この山村で「園の露」という米焼酎が生まれる。
園の露の製造元である川崎醸造場は、村の中心部から数キロ登った海抜430メートルの山の九合目にある。生産量はわずかに50石、いまだに焼酎製造工程の大部分を手作りで行っている。
名著『山里の酒』(葦書房)の著者で熊本県八代市在住の前山光則氏がこよなく愛するこの焼酎の個性に惹かれた人は数多い。私もその一人である。その個性は何処からくるのか。焼酎の馥郁とした香りに誘われ、独り諸塚村に向かった。
「焼酎原料境界線」に立つ蔵
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2002年3月2日土曜日の午前9時。宮崎市の自宅から北に車を走らせた。
10時半頃に日向市の美々津から耳川を超え日向市幸脇に入った。市中心部、そして宮崎県北に入るためには耳川を渡らなければならない。
西郷村(現美郷町)諸塚村など川沿いの入郷地区、そして最上流の椎葉村は江戸時代からシイタケ、木材、日向備長炭の移出入で生計を立ててきた。その物資を耳川の水運で下流に運び、その河口の右岸には、神武天皇のお船出伝説がある美々津港がある。かつては美々津千軒といわれて賑わったこの地から関西、大阪方面に日向の山の物資が運ばれた。
耳川は「焼酎原料境界線」としても知られている。この川から南は芋焼酎、北は雑穀焼酎、甲類焼酎、日本酒が飲用、製造されていたと言われる。文化圏を分ける大河なのだ。
10時ごろ、車は市内中心部に入った。市内の焼酎看板を観れば、県内大メーカーの看板の他に、広島のメーカーの甲類焼酎の看板も散見される。焼酎の地域圏が変わったことを実感する。ちなみに日向市、椎葉、入郷地区での甲類焼酎の嗜好は根強い。各地区で鹿児島や広島、兵庫のメーカーが縄張りを持っている。
日向市に入った。中心部は天領だった富高である。ここは江戸時代には大分県日田市にあった九州統括の西国筋郡代の富高代官所天領が置かれた場所である。日向諸藩の外様大名を見張り、江戸幕府が最も警戒する薩摩島津家の動静を探る拠点であったと言われている。先に述べたように耳川以北のこの地域は戦後の一時期までは日本酒甲類焼酎の地域であった。つまり薩摩ならぬ芋焼酎の北上を許さなかったのだが、今は甲類焼酎に加え芋焼酎も主流になっている。
車は日向大橋を渡り、中心部手前で椎葉、熊本方面に抜ける国道327号線へ左折する。この道は戦前は住友財閥、戦後はダム工事で整備された道である。上流の椎葉、諸塚に作られたダム工事による人の交流は、山村の焼酎屋、川崎醸造場に非常に大きな影響を与えている。
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日向市を抜け東郷町(現日向市)に入る。東郷町坪谷は酒仙歌人若山牧水の生誕地である。牧水は酒の歌で有名だが、実家ではどんな酒を飲んでいたのであろうか。まずは日本酒であろう。当時は東郷町をはじめ、宮崎県北には日本酒蔵が数多くあった。これらの地酒だけではなく、もちろん上方の酒も細島や美々津の湊に移入されてきただろう。高額だが生家の医院は買える余力があったかもしれない。
その次は焼酎である。これは球磨焼酎と考えられている。実家は医者であり、実家の医院の消毒用に球磨地方から移入した「きもく」と呼ばれる高アルコール度数の原酒がカメごと置かれていたらしい。牧水は「焼酎に蜂蜜を混ぜれば旨い酒となる、酒となる、春の外光」と詠んでいるが、戦前、この辺りで農民が作って飲む雑穀焼酎に蜂蜜を添加して飲むのは普通の習慣であった。「おもいでの記」によれば、母親は「泡盛、焼酎のたぐい」を相当量嗜む人物であったらしいが、彼女もこのようにして飲んでいたのであるのかもしれない。
ちなみに「白玉の歯にしみとおる秋の夜の酒はしずかに飲むべかりけれ」という有名な歌の酒も、日本酒ではなく実家で飲んだ球磨焼酎のことを歌っているといわれる。球磨から東郷に焼酎を運んでくるまでの街道筋に、球磨焼酎と同じ米製の「園の露」を造る川崎酒造場が佇んでいるのは中々興味深い。
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さて、ひたすら川の上流へ車を飛ばす。トンネルをいくつ越えただろうか……日向から1時間ばかり走ったころ、諸塚村の中心地、塚原地区に着いた。道沿いに「川崎酒店」という名前を見つけた。店内に入ると「霧島」「園の露」が仲良く並んでいる。そして、むしろ「園の露」が申し訳程度に並んでいた。ここは「園の露」川崎醸造場の当主・黒木秀子さんの弟であり、杜氏である川崎一志さんが経営する酒屋さんである。
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訪ねてみるとご主人が不在だったので、一路川崎醸造場がある家代地区に向かった。役場、学校を過ぎ、日之影方面に向かう峠道の入り口で山道に入る。細い九十九折道を、車が喘ぎながら登っていく。初めて来た人は「こんな山の上に焼酎の蔵があるのか」と驚くに違いない秘境である。
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登っていくと茶畑が密集している山の上に、40軒ほどの集落があった。ここが家代集落である。この集落は江戸時代に延岡藩の代官所が置かれ、大正、昭和初期まで役場も設置されていた諸塚村の中心であった。なぜ山の上に中心があるのか。宮本常一が唱えているように、昔は尾根道、山の稜線が街道だったといわれる。戦前までは馬を引いた「駄賃付け」が肥後、延岡方面に炭や木材を売り、帰りには塩、生活用品、そして球磨焼酎を運んでいたとされる。集落でもさらに高台に蔵はあった。蔵といっても大きな煙突もなく、普通の家と変わらない。焼酎を入れるP箱が家の前に積んであり、かろうじて焼酎蔵とわかる。約束の時間12時を少々過ぎていた。少し恐縮しながら、蔵の玄関を開けた。
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姉弟で今も守る手作りの仕込み
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蔵に入ると、この蔵を守る杜氏・黒木秀子さんがにこやかに迎えてくれた。弟であり、代表で小売店「川崎酒造」の店主でもある川崎一志さんもラベル貼りの手を休めて応対してくれた。ちなみにラベル作業は台所のテーブルで行われていた。
早速、川崎さんの案内で蔵内を見学させてもらう。蔵は玄関から入ってすぐの場所にあり、まず目についたのは米を蒸すための木製の甑である。ボイラーが導入されるまでは薪を使って蒸していたそうだ。
「ボイラーの前は薪を確保するのが大変でした。自分の家の山からの調達じゃ間に合わなくなってきていましたよ。今は楽ですわ~」
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向かって右手には前山光則氏が『山里の酒』『九州の峠』で紹介していた小さな木樽蒸留器がある。使い込まれて黒光りしている樽から、山里の労働を癒す「露」が出る。左奥にはカメも並んでいる。一次仕込みの小さなカメが九個ほど、大きなカメが三個ある。
「小さいカメは、さあ、何年前からあるとですかね……100年前の創業やから、それくらいからあるでしょうね。以前来た多治見のカメ業者が『何でも鑑定団に出せば高く売れる』って言ってましたよ(笑)。二次仕込みの大きいカメは東郷の牧水さんが廃業する時にもらったんです。」
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説明が続く。
「カメの横にあるのが酒粕です。延岡の千徳酒造の吟醸粕を使っています(注2024年12月現在は埼玉県神亀酒造の吟醸粕)。酒粕は業務用冷蔵庫で保管します。」
「二次仕込みの時に酒粕を加えます。独特の造りで、鑑定官の先生も例が無いと言ってましたよ。」
蔵の中枢である麹室へ入るために引戸を開ける。向かって左に台がある。台の上に藁、その上に布が敷いてあり、そこで米を揉む。もろ蓋が右手にある。
清酒蔵や焼酎蔵では通常、もろ蓋は積み重ねて置いてある事が多いが、この蔵では仕込みの時の「積み替え」を行わず、竹の棚にもろ蓋を置いて空気が通りやすいようにしている。もろ蓋の積み替え作業は行わない。
通常、焼酎の麹は2日が普通だが、ここは3日麹を引っ張る。4日目にカメに入れる。このカメに麹と水と酵母を投入する。これが一次もろみである。このもろみに酒粕を加えて発酵させ、木樽蒸留器で焼酎を蒸留する。
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蒸留して出てきた原酒は小さなホーロータンクで1年保存し、直ぐ横の山から湧き出た清水で割り水して出荷される。
蔵を一通り見学した後、居間に通された。当主の黒木秀子さんが、「ふつだご」と呼ばれる草団子と、胡瓜を梅酢につけた漬物、そして自家栽培のお茶を振舞ってくれた。
「車で来なければ焼酎を出したけどね(笑)」と秀子さん。
団子の甘く、ほろ苦く、しっかりとした食べ応えのある食感を楽しみながら、爽やかな風味のお茶を飲む。
山里の蔵と焼酎の歴史を聞く
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お二人に話を聞いた。
ー創業はいつですか?
「明治28年やから、100年くらい前ですね。創業者はひいじいさんの近治さん。焼酎を造る前は郵便配達をしていたらしいよ(笑)。蚕とか林業とか、紙すきもしちょったねえ……今でも80歳以上の爺さんはこの蔵のことを『紙すき場』って言うとよ(笑)。」
「そういえば、戦争中はこの辺りに沖縄の疎開の子供が来てたね。この前久しぶりに来て、『紙すき場がある』て懐かしんでたね。」
注 サイパンが陥落し沖縄上陸戦も迫った昭和十九年。沖縄県読谷村楚辺からの疎開者九世帯四四人は、全員が宮崎県西臼杵(にしうすき)郡諸塚(もろづか)村家代(いえしろ)に受入れられた。家代は、約一〇〇戸の集落であった。宮崎県内政部から諸塚村長へ、沖縄県からの「引揚疎開者受入要請」の通達文が届いたのは、昭和十九年七月であった。当時の岩谷諸塚村長は家代の出身であった。岩谷村長は、黒木家代区長、田丸青年団長、そして佐藤婦人会長を村長室に招いて、家代地区でも相応の疎開者受入れを要請し、楚辺からの疎開者全員の受入れを承諾させた。村長は、直ちに上記三名を受入準備係に任命して、受入諸準備を命じた。
読谷村史 「戦時記録」上巻 第二章 読谷山村民の戦争体験 第四節 県外疎開
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ー銘柄の由来は?
「近治さんの奥さんが『おソノ』さんやったと。だから園の露。単純やね。こん奥さんが強くてね。近治さんが同業者の寄り合いで負けて帰ってきたら、白装束をつけて仕返しに行ったらしいよ(笑)。」
ー同業者はこの辺りに多かったんですか?
「うん、あったよ。昔は日本酒の蔵が1軒、焼酎屋が2軒、この集落にあった。今の千徳(宮崎唯一の日本酒専業蔵)の田丸社長はその焼酎蔵『誉』の息子さん。30年以上前に東郷に蔵を移して、そのあと延岡の蔵と合併したんかな。だから吟醸粕も田丸さんの所からもらっちょったよ。」
「戦後の食糧難の時は芋や粟やらでつくっちょったけど、基本的には米と米糠で作っちょったと思う。今は米と酒粕だけだけど。」
「昔は米糠も使ってたけど、途中から父が酒粕に変えたね……昭和40年くらいだったかな、米は延岡市の佐藤焼酎酒造さんと国産米を共同購入してます。国産米は高いからですねえ。水は井戸水ですよ。」
ー創業者の近治さんは熊本県の球磨盆地に行って焼酎づくりを修行してきたらしいですね。
「昔は所属する酒造組合が高千穂にあったとよ。その関係じゃないかねー。なんか球磨盆地の山のふもとにある所じゃったげな。」
「何処で修行したか分からんとよねー。じいちゃんに聞いとけば良かった。とにかく山の麓にある蔵に泊まって修行したらしい。」
注 湯前町の蔵と先代から後に聞いた
ー酒粕を二次掛けで入れるのが園の露の特徴ですね。
「風味が良くなると、さっき言ったけど、それまでは米糠を使ってたね。一種の増量用の原料やね……昭和30年代からダム工事が始まったやろ。それまでは全量米やったと思うけど、量を出さんといかんわけで、米と米糠だけやったらすぐ出荷できない。それで米糠の代わりに、酒粕を入れたら比較的早めにまろやかになるから、お父さんが考えたと思うわ。」
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注 耳川に流れ込む柳原川に設置された諸塚ダム。1958年(昭和33年)に着工し1961年(昭和36年)に完成。日本に13基、九州には1基しかない中空重力式ダム。
「ダムが出来て働く人が増えたとよ。そん時は1万人くらい村に人口が増えて焼酎の量が逼迫したから、東郷の牧水さん(廃業)の所から酒を買わんと間に合わん程じゃったね。」
「ダム工事で交通が良くなったり人が入ってきて、ほかの焼酎が入ってきたのもあったね……。」
ーどんな焼酎が?
「昭和20年代ころから、日南の銀滴(芋焼酎)が入ってきたね。これは九州電力の人が常駐するようになってからじゃないかね。その後は甲類焼酎が一気に入ってきた。昭和50年から60年にかけてはコマーシャルの影響かねー。霧島さんが入ってきたね。今は霧島飲む人も多いね……。」
「幸い地元家代の人は園の露を飲んでくれるから、細々とやって行くことができる。やっぱり『川崎さんの所の焼酎』って言ってくれる人がいるからね。ただ、3年ほど前にはもうやめようかと話していたけどね。税もきつくなるし、粕の廃棄問題もあったし。でもそれこそ3年くらい前に東郷の牧水さんが廃業されたでしょ。あれは悲しかった……でもその時だったかな、村の役場の人が『お願いですから続けて下さい』って言ってくれて、もう一度頑張ろうかと思ってるとよ。」
ー販路は集落や村が中心ですか?
「周辺の人と、諸塚村と宮崎に一部出してるね。3年ほど前に宮崎の酒店(日高酒店・宮崎市福島町)さんが横浜の君嶋屋さんを連れてきて、今は札幌にも出してる。熊本と水俣の人も熱心に来てくれるね。」
「地元は盆、正月の掛売りが昔はあったね。今でも少しだけ続いてるよ。この集金が大変でね(笑)。最近は随分と減ったけど。」
「今まで古酒は全く作ってなかったけど、今度酒屋さんが企画してくれて30度の3年古酒を出すことにした。初めて自分の酒を寝かせてみたけど、旨いもんやね。」
「ここ最近口コミでこの焼酎の旨さが県外に広まってますね。」
「有難いですね。本当に県外の人が旨いと飲んでくれてるんですか?分からんからですね(笑)。本当に嬉しいです。地元は人が少なくなってるし、外に売るしか方法がないからですね。県外で売れたら嬉しいですね。でも、地元の人が今のところ飲んでくれてるので、細々とやって行けますけどね。」
「こんな蔵で……恥ずかしい」
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話は尽きない。黒木さんは「しきりにこんな蔵で……恥ずかしい」と言われる。私が「木樽蒸留、かめ仕込みは都会ではこだわり焼酎の代名詞のようになっているんですよ」と言うと、「本当なんですか、家の施設は古いばっかりですからね(笑)」と返された。
14時。2時間も話し込んでしまった。お暇させて頂くことにする。雨がパラついている。車に行こうとすると川崎さんが「濡れますよ」と言って、傘を駐車場まで差しかけてくれた。
エピローグ
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車を宮崎市方面に走らせる。
山から降りた時には薄日が射していた。
宮崎市の自宅に帰って、頂いた園の露を生で飲んだ。一口飲むと、深い味わいが口中に広がり、その余韻が長く続く。まるで諸塚村の深い森、山々に抱かれた時間の流れが、液体となって私の体に沁み渡るかのようだった。お湯割りで温められた焼酎の柔らかな口当たりに、体の芯までふくぶくと温まった。
二杯目はお湯割りでもう一度百年の焼酎を深々と味わう。お湯割りで温められた焼酎の柔らかな口当たりに、体の芯までふくぶくと温まった。そして何やら目の奥がじんわり熱くなった。