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「岡山芸術交流、行った?」アートを無邪気に語りたい

会期終了を目前に控えた23日(祝)に岡山芸術交流へ行ってきた。

天気は雨。
2歳の息子を連れてアートDAYの予定だったが、妻とお留守番してもらうことにした。
水溜りに足を取られ、傘で手も使えず、雨の日の鑑賞は良くないこともあるが、比較的人も少なく、また雨だからこそ感じられることも多い。



例えば、このクマさん。
旧内山下小学校のプールに眠るクマさん。
パンツを履き、ピンクのリボンをした巨大なクマさん。

トップ写真を見てもらえれば、プールのレーンに書かれた白線は
十字架のよう見え、目は開いているが、死に絶えているようにしか見えない。
それもこの雨の中、クマさんも重量を増し、ぐったり天を仰ぐ。
「DO WE DREAM UNDER THE SAME SKY」
(僕らは同じ空のもと夢をみているのだろうか)
とテーマを投げかけているのは、このクマさんだったのか?
と思ったが、このクマさんは別の題名があった。

「太陽が私に気づくまで私の小さな尻尾に触れている」
(Touching My Lil Tail the Sun Notices Me)

このクマさんは誰なのか?
太陽が一度も出なかった今日、
カワイイ本当はもふもふして触りたくなるような存在が、
岡山の鉛色の空を見上げ、
夢をみて(来世へ思いを馳せる)いるのだろうか?

「胡蝶の夢」のごとく、カワイイとかセクシーなどと気を躍らせることに夢中だったあの日のことを今はなき現実に向かう我々人類をも感じる。

この時、「太陽」は何なのか。
朝が来れば、陽が差し込み、気温が上がり、生命が息吹く。
つまり、朝が来るまでは夜であり、死の世界だと言える。
生まれてくるまでの自分は、身体のどこかに触れ、
誕生前夜の生命の孤独と向き合うばかりだ。

このクマさんからは感じない。
パンツを履いて、リボンをしたクマさんはすでに熊ではない、クマさんだ。
クマさんは太陽に気づかれることはなく、生命を宿さず、ただ天を仰ぐだけの存在。雨降る中、息絶えたのではなく、生まれていないだけなのだ。



もう一度、聞いてみよう「このクマさんは誰なのか?
熊ではないクマさんは、人を装い、人から愛され(評価を受け)、
しかしながら、生命を宿していない(実在のない)もの。

噂だろうか、国家だろうか、虚栄心だろうか。
何なのかわからないが、こういったものに人は夢を託してしまう。
クマさんそのものは夢ではないが、
クマさんに夢を託してしまうことがある。
夢は覚めるまで、心地の良い麻薬だ。

折りたたみ傘の狭い空間に自分の身体を当てはめながら、
プールの底に沈む、麻薬のような存在を眺めながら、
数日後には空っぽになるプールを想像していた。

プールは空っぽになっていいのだろうか?
私の心を満たす夢の世界は、なくなる日が来ていいのだろうか。

クマさんだけで、無邪気に語ってしまったので、今日はこの辺で。
おやすみなさい。


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