何をどこで誰から学ぶか?
一昨日・昨日と、茗荷谷の放送大学文京学習センターで心理学実験の面接授業を受講しました。
自分が被験者となって各種の心理学検査を受け、その結果を元にレポート(論文)を提出する科目です。
一学期は諏訪で受講できたのですが、二学期はなんと未開講・・・そのため茗荷谷まで受けに来たわけです。
「たまには大学のキャンパスで学ぶのもいいかも」くらいの軽い気持ちで選んだのですが、案外と移動が大変で(笑) これもまた学びの1つかしらね。
「受ける側の体験もまた学びになる」というねらいのもと、被験者がどんな気持ちになるのか、実験者に対してどんな印象を抱くのか、その一つひとつが貴重な経験になる―――と考え、心理学実験の授業を受けています。
と言っても、いざ実現が始まると夢中になって受けてしまうわたしが顔を出します(笑)
「どれもめちゃくちゃ楽しい!!」
これが素直な感想です♪
その後、今度は実験者として結果を分析し、レポートにまとめます。数値データに基づいた理論展開を求められるので、さっきまではあんなに楽しかったのに今度は頭痛が……
今回の先生は非常に面白い方で、授業の大半が心理学雑談という展開に(笑)
でもすべて今回のテーマに沿ったものなので、ムダは一切ありません。さらには質問タイムをたっぷりと取ってくださったので、気になったことはどんどん投げかけて理解を深めていくことができました。
プラスα・β・γ・・・のお話しが次々と出てきます。その知識量に圧倒されますね。オンライン講義と違って、こういう「余談」が楽しめるのは、対面授業ならでは。だから「わざわざ学びに行こう」と思えるのかも。
先生は、なんと昨年まで信大で教えていたという『長野つながり』の御縁があり、一気に親近感が湧きました。
「この先生にレポートを読んでもらいたい!」
そんな思いがふつふつと・・・何度も質問したりやり取りしたりと、幸せな時間を過ごしながら、二日間を終えました。
そんな先生のお言葉をいくつか。
「論文は実験者とのコミュニケーション」
「論文が書けないのは論文を読む機会が絶対的に不足しているから」
「心理学論文のお作法を身につけて書くチャレンジ」
「人の記憶なんて本当に曖昧なもの」
「記憶は簡単に書き換わる」
すでにこれを書いている時点で記憶が曖昧になっています(笑)
でも印象に残ったことや、大切だと思ったことは、自分の解釈として記憶しています。一言一句、言ったとおりに再現はできなくても、言わんとしていることは覚えているということです。
この時点で、入力後に処理が行われて、記憶が改編されていると捉えることができるわけです。
学んだばかりのことなのに、自分の中で知識として定着していく感覚は、やっぱり授業が面白くて楽しくてワクワクしながら受講していたからだと思うんです。
わたしの場合、その大きな要因は『先生』です。
「この先生から学びたい」
「先生の話をもっと聞きたい」
「先生に見てほしい」
そう思える先生の授業は、これまでもよい成績を修めてきたと実感しています。
中学時代は社会・理科・技術家庭科など、高校時代は数学・物理・地理・世界史・倫理・情報・音楽などが記憶にあります。
どれも先生が大好きで、その先生の話を聞きたいという思いから、ワクワクして授業を受けていました。
理科や情報、音楽は移動教室だったので、その場所まで行って学ぶというのも楽しかったですね。「わざわざ学びに来た」みたいな感覚があって。そういう仕掛けも、わたしのスイッチを入れてくれる要素なのかも。
今回の授業は、まず学びたい(学ばなければならない)科目があって、その後に受講する場所を選んで、最後に担当の先生を確認するという感じで選択しました。
でも学びの質としては、先生≧場所≧科目の順で影響を与えているんですよね。ここが不思議なところ。
だったら最初から先生で選べばよいということなのでしょうが、残念ながらシラバスに記載されたお名前だけでは先生の教え方や人となりはわかりません。実際にお会いして、受けてみないとわからないんです。
ただ、わたしはポジティブアプローチを好むので、どんな状況でも必ずよいところを見つけて、そこから学びを得るという手法を好んで使っています。今回も先生の脱線(?)を期待しながら、関連する応用知識を学ぼうとした姿勢がマッチしたのかもしれません。
改めてふりかえると、教える側の人間としても気づきの多い授業でした。
自戒の念を込めて、こう問いかけておきます。
「この先生から学べてよかった」と思ってもらえる先生になれていますか?
「ここで学べてよかった」と感じてもらえる場をつくれていますか?
「何を学び、何が身についたか」を実感してもらえる内容を提供できていますか?
明日も佳き日でありますように