「適当にやって」って言われるとイラっとする
どうもわたしはこの「適当」という言葉が嫌いなようです。
ついイラっとしてしまう癖がなかなか抜けません・・・
本来は「適切・適宜・的確・ふさわしい・ちょうどよい」といった意味の言葉なので、イライラする要素はないはず。なのに・・・
どうやら別の意味である「いい加減・ぞんざい」といった表現に聞こえてしまう耳をわたしは持っているようです。
わたし自身の捉え方のクセであり、幼少期のいい加減さが招いた忌まわしき思い出と重なっているのだと分析しています。
宿題をやらずにごまかして先生に叱られたり、行き当たりばったりでいい加減に取り組んでいたら学校中を巻き込むような大事になってしまったりと、小学生の頃はホント適当な子どもでした。
いまでもその気質が見え隠れするので、自分に対して絶対の信頼感が得られないでいます。「こんな適当な人間に任せもよいのですか?」と相手に問いたくなることは多々ありまして・・・だからこそ適当さ加減をなくすためにも、きちんと取り組むよう心がけています。(必死に意識して行動するように仕向けているという方が正しいかも)
嫌いということは、適当な自分を認めたくない、もう適当な人間ではなくなったんだと思いたい、そんなわたしがいるのでしょう。
一方で、まだ適当さが残る自分に気づいていて、問題を起こして迷惑をかけたり、怒られたりすることへの恐怖から逃げたい気持ちもあります。
だからでしょうか。わたしは「適当」ではなく「適切」あるいは「適宜」と言葉を言い換えて使うようにしています。
適当は「うまくあてはまる」「ほどよい」「いいかげん」と、かなり幅のある表現のようです。ポジティブでもありネガティブでもある、受け手によって捉え方が変わる言葉です。話し手の気持ちを明確に表したくない・表せない場合も使う可能性があります。
それに対して適切は「ぴったり当てはまる」という完全一致に近い感じがします。また「間違いがない」「正しい」という意味合いも感じられるため、場や状況に応じた「ふさわしい」方法を選ぶ際に使う印象があります。
一方、わたしが好んで使う適宜は、「便宜を図る」「各自の判断で行動する」「状況に合う」という、どちらかと言えば相手や状況に「合わせる」という意味合いが強いかもしれません。また、自分で考えて調整するような柔軟性を含んだ表現でもあります。
これらの言葉の用法について、このように説明されていました。
言葉の意味の幅でいえば、適当≧適宜>適切という感じでしょうか。
明確にふさわしさを求める場合は「適切」、各自の判断で状況に合わせてほしい場合は「適宜」、それぞれが思うほどよさを認める場合は「適当」と、うまく使い分けているというイメージがわきました。
ではこの場面の「適当」は何を示しているのでしょう?
「ほどほどに」あるいは「いいかげん」という意味合いでしょうか。
「他人任せで投げやりな生き方をして、なんとなく生きていけるなんて甘いことを言っているんじゃない!」と強く訴えていますよね。
さらにこの場面はどうでしょうか?
「いいかげん」あるいは「不適切」「無責任」「無関心」といった意味合いが感じられます。この場面での「適当」には、「○10%:×90%、ほとんど間違いでもOKとしたことへの怒り」が滲んでいるようにも見えます。
そして冒頭の一場面です。
もし上司からこう言われたなら、どう捉えるでしょう?
わたしだったら
「質は問わないから、とにかくやって結果を出せ」
「そんなことくらい自分で考えてやれ」
「力を入れ過ぎずに、もうちょっと楽にやりな」
「わたしが求めるレベルに合わせて適切に進めなさい」
「手を抜いて条件ギリギリのレベルでいいよ」
といった可能性を考えてしまいます。
どうやらわたしは「いいかげん」を「ほど良い加減」ではなく「手を抜いたギリギリのレベル」というニュアンスで捉える癖があるようです。
だから、仕事に対して手を抜くことをよしとしない自分の価値観に相反するため、怒りの感情へとつながっていく―――そう感じました。
どうでもいいことにこだわって、肝心なことに注力できない燃費の悪い働き方をしていることはわかっているのに、どうしても細部にこだわりたくなるわたしがいます。良い加減、良い塩梅、ほどほどに、という『中庸』を目指しつつも、常に全力になってしまうんですよね。
もうちょっと適当に生きられたらいいのにって本当に思います(笑)
多様性の時代、VUCAの時代、だからこその「適当さ」はあると思います。
正しいだけがすべてではありません。ふさわしさ=最適解こそが、適当の中には存在しています。
わたしはこの「適当にやって」という言葉にイラっとせず、ほどよく受け止められるようになりたいですね。
それがいまのわたしにとっての「最適解」かもしれません。
明日も佳き日でありますように