理性信仰という危ういもの

「なぜ人を殺してはいけないの」

よくある質問だ。

私はこれを「常識」だから、「当然」だからといった安易な言葉で片付ける人間があまり得意ではない。

それらの言葉は思考の停止を呼びその本質を考える行為を阻む恐れがあるからだ。事実その弊害は多くのところで見られるだろう。

人間は完璧ではないしそこまで利口でもない。故に我々は危険に飛び込んでいくしミスを起こす。これらは別に不思議ことではないし、むしろ起業家は率先してこれらに果敢に挑戦していく。それで利益を生んでいるのだ。

さて最初の質問についてだが私はこの問いに明確な答えを持ってはいない。絶対的な理由などないものと考えている。

場合によっては人を殺すことは合法になるし、現状のように違法にもなる。社会的模範として殺人はいけない。私たちは他者の人生を奪う権利はない。だが戦争となればこの権利が与えられる。我々はこの問いを考え続けざるを得ないのだ。

一方で理性というものもこの問題を考える上でよく出てくる。人間には理性があるから間違いを予測し回避することができるというものだ。

殺人も理性が欠けているから発生する事案だという声も少なくない。これは的をえていると思う。しかし、理性があるから殺人をしない、またはリスク回避ができるということはイコールにはならないと私は考えるのだ。

この理性信仰は人間を過大評価しすぎているという点で恐ろしい。

理性があれば自分が損する行為をしないというのだ。では日本でいう「男気」なるものはどうだろうか。「先輩だから後輩におごる」という習慣(今もあるかは不明)など。

理性が自損を防ぐ抑制装置になるかというのは必ずしもうなずけない。

この理性信仰こそ物事を単純化しているもので人間の心理状態を安易に説明できるようにしたのと「常識」なる用語を生み出した要因であると考える。

これらは非常に危険なものだ。この理性信仰こそ人間は間違わないという自信の背景になってしまっている。これは重要な問題だ。

人間は万能ではない。ゆえに疑ってかからないといけないのだ。懐疑的でなければいけない、一部批判的でいなければならない。でなければ人間は簡易化された薄い自信に裏付けられて大きなミスを起こすことになる。

理性こそが危険を回避する装置であるなどという文言を用いる人間はあまりにも信用ならない。それは自らがミスをするとは欠片も思ってない危険な存在だからだ。


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