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賛 喜多尾道冬先生

音楽という形のないものを形にするのが演奏家であり、文字という形に置き換えるのが評論家である。音楽評論をするにはもちろん音楽的な知識が必要である。(私のような門外漢が、あの演奏は良かったなどというのは個人の感想であり、あまりに稚拙でブログの記事を消してしまいたい衝動に駆られる)
評論は音楽に限らず--文学でもスポーツでもなんでもいい--その評論に骨格を与える思想の根本が必要であろう。例えば音楽的な知識がある人ならば、その立場から。文学の知識がある人なら、文学の立場から。何か一つ、その人の思想のよって立つ土台が必要だと思うのだ。
次にくるのが感性だろう。知識が木であるとするなら、感性は花や葉のように文章を彩るものとなる。いかにも冷たい論評をする人は、知識があるが感性がもう一つなのだと感じる。
ところで私は片耳が難聴で、大きな音が非常に辛い。その為コンサートにはいかず、もっぱら録音・録画ばかり聞いていて、そうなると水先案内として、音楽之友社が刊行する名盤紹介もずいぶんと読んだ。
上記のように、それぞれの先生方が、それぞれの立場からクラシック音楽を論ずる中で、私がずば抜けて好きだったのが、ドイツ文学の喜多尾道冬先生の評論だった。人が音楽の中に何を見出すのか、その一つに人はいかに生きるべきかというスタンスを常に著されていた。
 紙媒体でのレコード芸術がもう読めなくなり、きっと少しずつ人々の記憶からなくなっていってしまうのがどうしても惜しい、喜多尾道冬先生の記事を一つだけご紹介させていただきたい。(削除要請ありましたら、削除致します)以下、喜多尾道冬先生(途中、中略有、抜粋)

シューベルト:歌曲集<<冬の旅>>D九一一

人生の苦悩を解決する 努力 それをいかに表現するかが 鍵

シューベルトは自分の人生の最も苦難に満ちた時期に冬の旅を作曲した。
それはまさに人生の冬の時期にあたり、従ってここには苦しみに満ちた人生をいかに生きるか、それをいかに意味あるものにしうるかが問われている。
それにふさわしい演奏となると、まずヒュッシュの録音が上げられるだろう。

ヒュッシュ

今から60年以上も前の 、SP 時代の演奏だが、今日でも新鮮さを失っていない。ヒュッシュがこの曲集を録音したのは1933年、ヒトラーが政権を奪取した年である。ドイツは第1次大戦に敗北して、健全な中産階級が崩壊していた。政治の混乱と社会不安が広がり、その中でいかに生きていけばよいか誰もが思い悩んでいた。そして一番手っ取り早い解決策としてヒトラーに国運を委ねようとしていた。ヒュッシュはこの混乱の中で、ドイツ 市民階級の健全なフマニスムスの伝統を守り、それを冬の旅の演奏を通して訴えようとしている。どんな困難にもめげずそれを忍耐強く解決していく地道な努力、この市民倫理が彼の演奏の根底にある。また一語一語噛みしめるような 発音と発声、折り目正しいアーティキュレーションから求道的な姿勢が感じ取れる。この精神的なアプローチがヒュッシュのトレードマークだった。
またミュラーのピアノ伴奏はいかにも シューベルトらしい限りない謙譲の念を響かせ深い感銘を与える。

ロッテ・レーマン

戦前の演奏でもう一つ落とせないのがロッテ・レーマンの演奏だ。この連作歌曲集の核心に突き入った名演で、私たちはなぜ歌を歌うのかという最も根源的な問いの意味を明らかにしている。シューベルトは「愛を歌うとそれは悲しみになり、悲しみを歌うとそれは愛になる」と言ったが、レーマンの演奏は愛と悲しみと歌の相関関係に触れ抜いている。歌は悲しみを愛に変える力を持つだけではない。それは苦しみのあまり生きる気力を失いかかる時、 それを奮い起こす勇気を与えてくれる。厳しい冬の旅を耐え抜いていくにはこの歌の力は不可欠だ。レーマンの演奏は時代を超え常に私たちの心の底に潜む歌を喚起してくる。

ホッター

ホッターは戦中から戦後にかけて、ライブを含め冬の旅を5回 録音した。ヒュッシュと同じように、ドイツの苦難に満ちた 国難を体験しているだけに、それらには求道的な色合いが強い。戦後の初録音はムーアの伴奏によるモノラル版だが、当時のドイツ人の心象風景を色濃く反映しているような、いわば 罪を背負った人間はいかにして贖罪が可能かを問う深い悔悟の念が聞き取れる。さらに罪を許されないものはいかに生きていくべきかを自問する忍従の謙虚な姿勢も見て取れる。これは良心というものを持つ人間に深く訴え、生きる意味と勇気を与えてくれる演奏だ。次のヴェルバとの共演は、伴奏にオーストリア人を得たためだろう、これまでの 厳しい自己凝視に変わって、ウィーン的情緒が加味され、口当たりよく聞きやすくなっている。ここではどんな厳しい寒さと孤独感にも決して弱音を吐かぬ強靭な精神力に増して、ホッター特有の温かみのある包容力が前面に出てきており不吉なカラスは親しみある旅の道連れとなり鬼火も孤独な慰めとさえなっているほどだ。
ホッターの東京ライブは、彼が冬の旅で達した究極の境地を示している。
これは失恋の苦しみを紛らわすための旅ではなく、旅による自己変革が目指されている。だから厳しい冬の条件は全て自己改革の合図となり、一つ一つ強烈な意味をおびて聞き手に迫ってくる。私たちはこれほど真剣に人生に対処したことがあったろうか、そう自問せざるを得ないほどだ。ホッターはこの厳しい自己対決を通して、深い人生観賞に達し、解決をつけられなかったものは謙虚に受け入れて肯定する。そのスケールの大きいヒューマンな姿勢には圧倒される思いだ。

音楽を聴くとは自分にとって何であるか。
迷った時に、いつも私はこの評論が羅針盤となるのです。

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