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ポンコツ研究者、ポンコツ教員

僕は仕事ができない。研究者としてもポンコツだし、教育者としてもポンコツなのだ。だからいまから読んでもない本を引用する。研究者にとっては背徳ものである。でも、いいのだ。僕は仕事ができないのだ。

「仕事ができない」はなぜ最高の悪口なのか?

せっかくの年の瀬なのであえていうと、2024年には運命の出会いがあった。かなり面白いYoutubeチャンネルをみつけたのだ。その名も積読チャンネル。このチャンネルは面白そうな本を次々と紹介してくれ、積読どころか本を買わなくてもよくなるくらいのチャンネルだ。でも、すごく面白そうな本を紹介してしまうので五回に一回くらい買ってしまう。もちろん、大半が積読になっている。積読チャンネルを知ったおかげで毎日のジョギングが楽しくなった。

その中でもだいぶ面白そうな本の紹介があった。「「仕事ができない」はなぜ最高の悪口なのか?#37」(2024年7月22日アップロード)で紹介された『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』という本である。同書の帯にはこう記されている。大学教授の仕事に燃え尽き、寿司職人やコインパーク管理人として生計を立てていた異色の経歴を持つ著者が、なぜ過酷な仕事に高い理想を持つのかを歴史的・心理学的に分析し、燃え尽きを解決できた個人やコミュニティーを明らかにする。

その中で筆者は、研究者になりたくて大学の教員になったのにもかかわらず、イヤになって仕事を辞めてしまったと述べている(とYoutubeチャンネルは紹介している)。膨大な事務作業、まじめに学生に向き合っているのにズルをしてくる学生、そして、「自分はがんばっているのに仕事頑張っていない同僚と給料いっしょじゃん」という現実。そうしたことから大学の教員という仕事に燃え尽きてしまったというのだ(←全部、Youtubeからの引用で本書は読んでいない)。

この本の内容を紹介される中でユーチューバーが指摘していたのは、我々は仕事に毒されていることである。正確にいえば、無意識の間に人生の中心に仕事を据えているのではないかということだ。例えば、「将来何になりたい」と聞かれて職業を答えることがごく当たり前になっている。さらには「家事も大変な仕事だよね」と仕事ではないものごとも仕事に例えたりする。挙句の果てには飲み会に遅刻しても「ごめーん、仕事だった」というと許される。「お前は飲み会よりも仕事の方が大事なんかい」とはぜったいにこの社会では言えない。

そんな人生でいいのかよと著者は指摘している(とユーチューバーはいう)。

仕事は生活の中心でなくてもよい

そんな本の内容を紹介しつつ、人生の中心は必ずしも仕事でなくてよいよねという話になる。将来の夢といわれて「優しいおじいちゃんになりたい」でもいいじゃん。将来の夢は「ビーチでのんびり暮らしたい」でもいいよね、とのことだ。そんな話の中でなるほどねえと思ったのはアップルの社員の話である。

このYoutuberがアップルの社員と話した時、その方は「少なくともうちの部署では仕事に全く生きがいを感じていないよ」といっていたという。同社では概ね1日8時間で終わるタスクが与えられているのだが、全員能力が高いので気合を入れて6時間で終わらせ、みんなバンド活動とかしているという。でも、少なくても食い扶持を稼ぐための仕事には結果を出す。これはマストだということだ。それをやれば、その他はどこでなにをやってもいい。

でも、そうすると研究者はどうなんだろうと思うようになってきた。

研究者という仕事―専門性を深めるってすごいよね―

いわゆる有能な研究者というのは大学に勤めて研究もやりつつ教育や校務もやりつつというのが当たり前である。僕の業界(文化人類学)でも、「教育・校務」も「研究」も仕事であり、不可分なものであるという考え方はある。

とりわけ、文化人類学でも大御所といわれている人たちは自分の研究もしっかりやり、かつ大学でもしっかりと教育している。たいてい大御所は国内でも指折りの大学院に務めているので、仕事の内容も文化人類学である。そこでは「アフリカの紛争といえば●●先生」「インドの精霊に関しては××先生」「牧畜民については△△先生」といったようにきまった仕事ができている。そこに入る大学院生たちも、この先生はこの分野のプロだからこの先生の指導の下で研究したいという意図を持って入ってくる。

ヘビーメタルのバンドが70歳になってもヘビーメタルをやり続けるように、こうした大御所の研究者は、教育であろうが研究であろうが、文化人類学を一貫してやるということが期待されている。

でも、僕が思うことはある。同じことやって飽きないのか、だ。なぜなら、おそらく僕は正規分布からだいぶ外れているくらい飽き性で多趣味である。そうした性格なので大御所のような仕事をするのは無理かなと思ってしまう。それよりも自分が勉強してきたことをちょいちょいと授業に反映できる学部の授業の方がちょうどよい。僕の勤め先は大学院への進学者がほとんどいない社会学系の学部である。さらにいうと僕はその中で文化人類学を教えているのでさらに傍流である。なので学問体系をきちんと教育するよりも、社会を知ることは面白い、勉強って楽しい、本を読むのはエンターテイメントだと思ってもらうことを心がけている。飽き性なのでそんなことを手を変え品を変えできるのが僕の強みだといえよう。

僕は何かを深めようとして意図的に深められる性格ではない。専門性にこだわって深めるという作業は僕にとっては人間業ではない。すくなくとも、僕はそんな職人タイプではない。

ポンコツ研究者-飽き性だからしょうがない-

飽き性なのはしょうがない。

僕はアフリカ研究から東南アジア研究に変えたし、読書も幅広い分野の書籍を呼んでいる。趣味は海外旅行である(もちろん国内旅行もする)。この前にはYoutubeで見たモンゴルのシャーマンの話に感銘を受けてモンゴル旅行をしてきた。そこでいろんなものが気になって、いまはモンゴルがマイブームである。モンゴルの本をめちゃくちゃ読んでいる。

さらには多趣味でもある。春から秋にかけては釣りにも行きたいし登山にも行きたい。冬にうはスキーに行きたい。毎日心がけているジョギングだって忙しい。料理もいろいろ試している。狩猟免許も取った(←免許を取った時点で一段落をしてストップしてしまっているので、誰か私を狩りに連れ出してほしい)。さらには今の家にも飽きてきたから引っ越ししてリノベできるような家に住みたいし、その前には畑を作りたい。その他にも、そろそろ親が後期高齢者なので家族史を聞き取っていたら、地域史が気になってきたので、とりあえず四日市市史を全部読みたい(できれば論文執筆にもつなげたい)。毎日やっている語学の勉強だって研究というよりも趣味の領域だ(ミャンマー語とシャン語をコツコツと勉強しています)。こうしていると研究であれ教育・校務であれ、仕事をするには時間がない。

それでもなお、私が文化人類学者としてなんとかやっていけているのは、「こんな研究者いてもいいよね」と思われていることだろう。東南アジア研究という仕事は楽しいし、忙しいので一応、生活の中心にはなっている。そして、それに満足している。

好きを仕事に微妙にしていない-教育者は研究者でもある-

研究は楽しい。

そう思えてくるようになったのは実は僕が教育者という「食い扶持を得るための仕事」をしているからなのではないかと思えてきた。上述のアップル社員は仕事をしていないと、バンド活動をすることもできないだろう。同じように僕は教育をすることで研究活動を安心してできているのではないだろうか。そう考えると今の僕にとっての研究とは、「仕事ではある」けれど「仕事ではない」というあいまいな位置づけにある。

なぜ「仕事ではない」といえるのかというと大学の教員は授業と校務をやっていれば給料をもらえるからだ。研究者の悪口で「あいつは研究もしないし、論文もかかない」というものがある。口の悪い研究者なんかは「あいつは研究室でお茶飲んでるだけや」といっていたりする。でも、「教育をしていて、お茶だけ飲んでいても」給料をもらえるという環境こそが、恵まれた研究者を生んでいるのではないかと思えるのだ。

少なくとも僕にとってはこうした環境が研究を精力的にするきっかけにつながっている。つまり、自由な時間というのが与えられることで研究というのは進むんじゃないかということだ。「研究をしなさい」といわたら研究したくなくなる。その一方、研究しなくてもいいですよといわれれば研究をしてしまう。少なくとも僕にとっての研究はそういう風に回っている。

今の職場はそこそこ恵まれている。

校務と教育で時間をつぶされるほどのバーデンはないし、研究もそこそこさせてもらっている(←事務仕事は多いが恵まれている方である)。なにせ夏休みと春休みは1ヵ月も海外でフィールドワークを許可してもらえる大学はあまりない。いってみれば「研究」、すなわち、仕事ではない仕事をやらせてくれる余裕のある職なのだ。

そう考えると僕には大学院で文化人類学を教えるという仕事は向いていないのではないのではないかと思えてきた。そもそも何かに束縛されるとやる気が起きない。そもそも子供の頃からやれと言われたらやらないけれども、やりたいことにはどんどん手を出してきた性格だ。自由に選び取ってことに関してはとことん集中するものの、与えられたものは与えられたという時点で興味をなくしてしまう。そんな性格なので、もしかして(そんなに有能ではないのでほぼあり得ないが)専門性を養う大学院で教員をすると自分はうまくいかなくなるかもしれない。僕は専門性を深めるという性格ではない。いろんなことをしていたら気が付いたら深まっていたというタイプの性格である。たまたま、そこでフィットしたのが文化人類学だっただけだ。そもそもは国際関係論が先行だったし、人生はたぶんこれからもそこそこ生きるだろう(不慮の何かがないかぎり)、その時に別の学問が面白くなるかもしれないし、別の何かが面白くなるかもしれない。仕事と教育が同じ学問分野で占められると自由を失った気になる。上述のアップル社員がアップルでの仕事が食い扶持で、バンド活動が本当にやりたいことであるように、私にとっては「教育・校務」が食い扶持で、「研究」は本当にやりたいことであろう。

でも、研究者にとっては「教育・校務」も「研究」も仕事のはずである。じゃあ、そんな職業についている奥は「教育・校務」と「研究」のバランスをどうとるかだ。

譲れない時間は確保をして仕事をする

そのヒントはやはり上述のYoutubeチャンネルの中にあった。その中では仕事が人生の中心にならないための解決方法として取り上げられていたのが、「ぜったいに譲らない部分を作り、仕事をしていくことである」。その例として取り上げられていたのが、ベネディクト会という修道会の中でもニューメキシコにある修道院である。この修道院にはエンジニア出身の修道士がおり、1990年代に収益確保のためにウェブサイト制作を行っていたという。当時インターネットが急速に広がりつつあり、需要が伸び得ていた時期であった。そのビジネスは人気を博し、人手がまわらなくなったという。ビジネスとして拡大すればうまくいく。

しかし、その修道院はビジネス自体をやめてしまった。その理由は「祈る時間が確保でいなくなったから」だという。修道士にとっては「主」は祈ることであり、ビジネスは「従」なのだ。「従」が生活の中心になるくらいなら捨ててしまっていいよねという判断である。ちなみに、そのビジネスで儲けたい人は修道院を出て会社を立ち上げたのだという。

この事例から学び取れるのは、自分の大事なことは時間を確保しておき、その一方で仕事をするということで仕事に人生を侵食されないようにしようということであろう。

私も研究と教育もこれに当てはまるのではないかなと思えてきた。でも、それは研究という絶対領域を教育業務から隔離し、そこを死守するという意味ではない。目指すところは、「ポンコツ教育者だからいい教育をする」のと「ポンコツ研究者だからいい研究をする」という二つの歯車をうまくつなげることである。

ポンコツだから「いい仕事をする」といわれるようになりたい

僕は教員としてもポンコツである。僕の同僚の中では教育や校務に精を出し、それこそ1日8時間以上働き、幸せそうにしている人たちがいる。僕は無理だ。絶対無理だ。過労ではないが、ストレス死する。そうした教員から見てみれば僕は「研究ばっかりやって大学業務をおざなりにしている人」にみえるだろう。その一方で、僕は物事を深められない飽き性な正確で研究者としてもポンコツだということである。

でも、少なくとも私が大学業務で気を付けていることは「食い扶持には成果を出す」ということだ。与えられたタスク(授業や校務)をできるだけ短時間でこなし、かつ、ちゃんと関係者を満足させる。つまり、学生に対しても「岡野先生の授業は面白いよね」といわれる授業をし、大学の事務方にも「まあ、仕事はしているよね」と思われ、かつ、同僚にも「仕事をしているよね」と思ってもらうことである。もちろん、そのためにフルに努力する必要はない。なぜなら、教育業務は私の仕事ではあるが、やりたいことではない。なので私にとって教育業務で大事なのはみんなが満足を行くギリギリを狙うことである。だって研究したいんだもん。ここは譲れない。修道院も祈りと同じだ。

その一方で、大学の授業と研究は背反ではない。研究、そして、趣味をしているから、いい授業ができるというのもあるはずである。自分のすべての活動が歯車があうように工夫はできるはずだ。例えば、モンゴル旅行をした結果、「この国ではどうやって人々は暮らしているのだろう」と気になってめちゃくちゃ勉強したので授業でも取り上げることにした。さらには授業でもミャンマー問題を扱っている。書いた論文も卒業論文の教材として使っている(←ひとつのウェブ学術記事を卒論の体裁に整えてつくったった)。そこで目指すのは、岡野先生の授業面白いよね。やっぱり研究をしっかりしている先生だからこその授業やっているよね、という学生の評判だ(←さらにいうならば他の先生に聞こえるようにどこかで言っておいてほしい)。

さて、赤裸々にこんなことを書いてきたが、これは同僚の教員にも見つかってもいいのかなと思っている。研究は大事だし、かといって、食い扶持には成果を出す。同僚に関して期待しているのは食い扶持となっている仕事に問題があるのであれば指摘してもらいたいし、この人は研究が生きがいなんだと思ってもらいたいということがある(←その他にも趣味であるが研究は人生で最も楽しいことといってよい)。

僕は教育のために必要最低限時間を取りたくない(でも食い扶持には成果を出す)。研究も深めることが苦手なほど飽き性である(でも論文はだす)。僕は研究者としても教育者としてもポンコツなのだ。でもポンコツだからこそ、「ポンコツならではの、いい研究をしているし、いい教育をしている」と思ってもらいたい。というか目指すところはそこにある。

そして研究を「仕事にする」のはやはり抵抗がある。こんな文章を書いているようにゆるくやる(本当は論文書いているはずだったのに…)。でも、ゆるくやれるからこそいい成果が出せる。そんな感じの学術研究者でいいのかなと思っている。

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