子どもに怒りを爆発させてしまったあとは、なぜ子どもが欲しかったのかを思い返す
年中児は賢くなり、言葉も達者になるので、親も対応に戸惑うことが増えました。
こちらにも書いていますが、私は二人目育休中に上の子とのコミュニケーションを俯瞰してみようとチャレンジ中。
学ぶことはとても多いですが、それでもやっぱり、売り言葉に買い言葉で起こってしまうこと多々あり。
「自分でもまたやってしまった」と思うのですが。
今日はそんなある日のブルースです。
今日も子どもに怒ってしまった・・・と苦い気持ちになったどなたかのお役に立てれば幸いです。
ふと思い返す。
私はなぜ子どもがほしかったのか。
単純に子どもが好きだったから。
だけではない。
なんか、もっと、自己中心的な理由だった。
自分が大人になるまでに、他人ほど十分に成長させることができなかった、自分の子どもじみた部分を成長させるため。
そう、自分を律するため。
あいさつ、
他人へのたのみごと、
感情のマネジメント、
片づけ、
お金の使い方、
時々人間関係をリセットしたくなる癖。
私は大人になりきれていない。
そんな自分が大人になるには、なにか動機が必要だと思った。
子どもは私の「おもし」になると思った。
子どもを産めば、私は子どもから逃げることはできない。
子どもがうまれれば、やっとこんな私でも大人になる覚悟ができるだろう。
そんな打算が少しあった。
「おもし」とは、樹木希林さんが夫の内田裕也さんの存在について表現した言葉で、私にもしっくりくる表現だとおもった。
子どもの目があるから、やってはいけないことをやらずに思いとどまる。
子どものお手本にならないといけないから、怒りをなんとかコントロールする。
親は自分の「選ばなかった人生」を子どもに託しがちだという。
そしてそれが子どもにとっては呪いになると。
私も身に覚えがある。
託された子どもとしても、託しそうになった親としても。
でも、子どもは私とは違う人間なのだ。
違う意思をもった人間なのだ。
その意思を尊重したい。
それよりも、子どもに託すのでなく、自分が今からでも、昔選ばなかった道を選ぶのだとしたらどうだろう。
そしてその背中を子どもに見せることで、子どもになにか学んでもらえるといいなと淡い期待を抱くとか。
子どもをおもしにするために、最近心掛けるようにしたことが一つある。
子どもの目を見ること。
案外普段の生活の中で、子どもの目を見ずに話しかけてしまっていることって多い。
むしろ、子どもから視線を外されてしまうことも多い。
でも、子どもの、時に感情のこもった目をみると思う。
「子どもが私の行動を見てるぞ」と。
子どもに怒りの感情のコントロールを教えたいときこそ、自分が怒りをどうコントロールするのかみせるチャンス。
あぁそれなのに私は・・・・
言葉よりも背中のほうが、雄弁かもしれないし、背中だけだと何も気づいてもらえないこともあるかもしれない。
だから、言葉も背中も、大事にしたい。
と、まだまだ大人になり切れない私は、子どもに怒りを爆発させたあとそう思う。