【ネタバレ有】西村賢太『雨滴は続く』感想(その1)
先日、西村賢太の遺作『雨滴は続く』が文庫化すると聞いて、発売後すぐに書店へ行った。
文庫本を買って、帰るまでのあいだに、西村賢太の死を知った日の衝撃を思い出し、単行本の帯に書かれていたフレーズ「さらば、北町貫多!」を思い出して、「『さらば』を言うには、早すぎた」と、改めて思った。心から思った。
『雨滴は続く』とは、どういう小説か。ざっくりいうと、主人公である作者の分身「北町貫多」が、プロの作家になり、初めて芥川賞候補にその名が挙がるまでが描かれた私小説だ。1000枚の長篇で、西村賢太作品のなかではもっとも長い。しかしその長さを、まるで退屈させずに読ませてくれる。西村賢太が過去に著したさまざまな作品のエッセンスが詰まった、圧倒的な小説だ。
敬愛する私小説家、藤澤清造の「歿後弟子」としての活動を熱心に続けていた37歳の北町貫多は、活動の一環としてある同人雑誌にも参加していた。そこに載せてもらった作品が、〈同人雑誌優秀作〉に選ばれ、文芸誌『文豪界』に転載されることになった──というところから『雨滴は続く』は始まる。師である藤澤清造への思い、クセのある編集者たちとの出会い、長い付き合いの古書店主「新川」とのやりとり、恋人が欲しいとも願う日々のなかで知り合ったふたりの女性のあいだで揺れ動く様子などを絡めつつ、自らが思う、藤澤清造の歿後弟子を名乗れるだけの資格を得るために、つまり、私小説書きとして世間に認められる存在となるために奮闘する貫多の姿が描かれる。
私は、芥川賞受賞作の『苦役列車』で西村賢太を知り、それをきっかけに『小銭をかぞえる』や『どうで死ぬ身の一踊り』などの他作品も読んで、そのおもしろさ、率直でありながらユーモアの効いた文章に、すっかりまいってしまった。私には難しいこと、複雑なことはわからないし、現代の純文学のほとんどは苦手だ。ネット上の、文学愛好者や作家志望者や読書アカウントの話も理解できないことが多いしついていけない。しかし西村賢太作品は、そんな読者に対してもきわめて親切設計にできている、優しい小説だと感じた。そこがうれしかった。西村賢太の私小説や随筆に、私は何度も励まされてきた。悲しいときやつらいとき、絶望したとき、怒りや恨みに心を覆われたとき、西村賢太の本を読んだ。西村賢太が亡くなった悲しみも、彼自身が残した作品が少しずつ癒してくれたのだ。
とはいえ私は、西村賢太の良い読者である。とは、決していえない読者なのだった。
西村賢太は、たとえば「思い上がりを承知で云うが、私小説とは読むのも、そして書くのも数ある小説ジャンルの中できわめて容易ながら、しかしそれでいて、これは読むのも書くのも或る種の特異な資質を要するものなのだ。」(西村賢太『下手に居丈高』徳間文庫204頁より)と書いたりしている。また、朝吹真理子との対談で「僕の場合、同人雑誌上がりということもあって、いろんな同人誌が送られてきます。それを見るとね、プロになっていない文芸愛好家の方々が、やたらと詩か私小説、いずれかを書くわけです。簡単だと思っているんですよ。その両方ともが。でもね、酷いんです。思いつきをただ並べただけのような。」(朝吹真理子×西村賢太『西村賢太対話集』155頁より)と述べたりもしている。
私小説とは、誰もが読めて誰もが書けるような、簡単な、甘いものではないのだ。
私も、西村賢太がいうところの「資質」をまるきり欠いている。たとえば、多くの作品に登場するヒロイン「秋恵」さんは、西村賢太自身が何度も「デフォルメを施してある」と随筆等に書いているにもかかわらず、作中に描写されてるとおりの経歴、外見の女性であると信じて疑っていなかったし、これもまた「デフォルメを施」され、一個のキャラクターとして作り込まれているのであろう北町貫多に対しても、作中の描写のすべてがイコール事実だと思い込み「こんな古くさい言葉遣いでほかの人間と会話が成り立つもんかな。おもしろいな」などと、いろいろな意味でひどい感想を抱いたりしながら読んでいたのである。
そのうえ私は、何冊かの単行本や文庫本を買ってない、という、いまとなっては悔やんでも悔やみきれないミスを犯している。それらはもちろん現在、紙の書籍での入手は超困難である。本は、すぐに売り切れる。実店舗で見かけて心が動いた本は、よほどのことがない限りは即座に購入すべきである。いつでも買える、いつでも読めるなどというふやけた考えは捨て去ることだ。「いつでも」など、あり得ない。これも、西村賢太から教わった大切なことのひとつだ。
話がずれた。『雨滴は続く』に戻る。
『文豪界』の〈同人雑誌優秀作〉に選ばれ、購談社『群青』誌からも声をかけられた貫多。うらやましいほど順調に見えるが、作中では、気の小さい人間ならばあっというまにめげてしまいそうな「プロの洗礼」みたいなものを受けている。
『文豪界』からは、転載されたあと、依頼はきていないし、購談社の編集者「蓮田」には、「今後のことについても、余り過剰な期待はしないで下さいね。結局、小説で生計を立てるなんてことは本当にひと握りの人間にしかできないことですし」「また北町さんの場合は、失礼ながら年齢も年齢ですし、これからそこを目指そうとしても、まあ、なかなか大変なことだと思いますから」と、作家志望者にありがちな幻想(好きなものを好きなように書いて有名になってファンにちやほやされる印税生活!最高!)を打ち砕くような、シビアなことを面と向かって言われる。
少なくとも私は、作家として成功し、文芸誌には頻繁に作品が掲載され、テレビに出演したりもしていた西村賢太しか知らないので、「あの西村賢太でさえ、こんな経験をしているのか」と思ったものだ。
そして、商業作家というからには、一定以上の商業的な成果をあげなければならないので、編集者はもちろん書き手の側にも、ビジネスライクな姿勢が求められるものなんだろうなあ。とも、いまさらながら思った。私小説も甘くないが、ビジネスもまた、甘くない。
それでも貫多はたくましい。『群青』に提出する短篇の構想をまとめ、その昂揚感にまかせて、女を買いに行くのだから。
『雨滴は続く』での貫多は「恋人を得たい」という「ホットな慾求」を抱えている。新川に女性の紹介を頼んだりもしているが、過去の行いからそれも叶わない。
ところがそんな貫多の前に、ふたりの女性が現れる。ひとりはシングルマザーのデリヘル嬢「おゆう」こと「川本那緒子」、もうひとりは、七尾での〈清造忌〉の取材に来た地元新聞記者「葛山久子」である。
作家への道が開けたことで、「小説書き」であることが恋人獲得に有利に働くのではないか、などと考えていた貫多にとって、このふたりはどちらもぴったりな女性に感じられる。那緒子は読書好きだし、久子は有名大学出のインテリ。もっとも貫多は、文学好き、文学通をことさらにアピールしたがるような、賢しらぶった女は嫌がっていて、作中「そもそも文学少女なぞ云う人種は馬鹿で口が臭くて性格もヒネクレているから」「いかにもインテリ気取りの読書女」「鬱陶しい“文学ガール”」などというフレーズが出てきたりする。しかしまったくの無知、無教養な相手であっては、魅力は感じられないのだろう。私はこういうところに、貫多の(西村賢太の)独特な複雑さや繊細さを、垣間見るような気がする。
那緒子と久子。ふたりの女性を両天秤にかけ、久子には自作が掲載された文芸誌を手紙を添えて郵送し、那緒子とは性行為なしの店外デートで演芸場へ行ったりする。あれこれとせこい企みをしながら自分の出方を決めたり、勝手な夢想に耽ったり、ちょっと思い通りにいかないと、相手をしてくれている女性に心のなかで悪態をついたりするあきれた身勝手さに、いかにも北町貫多らしさが出ていて、可笑しさと親近感が同時に湧いてくる。
だが、この、女性たちとの関係──ことに、那緒子との場面には、過去の作品とは趣の異なる恋模様が描かれていて、思いがけずドキッとさせられた。
貫多が久子に目移りしていたために、また、執筆作業に打ち込んでもいたために、空白期間が生じたのちの、貫多と那緒子の2度目の店外デート。鰻屋で食事をしながらの会話から、ラブホテルで共に過ごすまでに至る流れには、切なくなるような恋愛のリアリズムがある。
文庫版105頁に、購談社の蓮田が貫多の提出した原稿を評して「だって、これには物語のトキメキがありませんもん!」と言い放つ場面があるが、蓮田さん、この『雨滴は続く』、お読みになりましたか。と言いたくなる。あるじゃないですか。ほとばしってるじゃないですか。ときめき。当時はなかったのかもしれんが。時を経てこの書き手は「私小説」に「ときめき」をプラスし、読者を魅了するという凄技を見せてくれておりますぞ。
だがしかし。西村賢太の私小説がいつもそうであるように、いい感じに見えていた那緒子との関係も、郵便によるアピールを続けていた久子からの返状も、途絶えてしまう。貫多自身のせいである。二兎を追って大失敗したのである。那緒子と久子への、罵倒の言葉をひとり虚しく吐き出す貫多。おのれの分身である主人公の無様さを、その他の登場人物のそれ以上に容赦なく描く、安定の賢太クオリティが心地よい。ワンパターンと評する向きもあるだろうが、読者にとっては、たまらない爽快感を得られる最高のひとときだ。
さらに、今作における「賢太クオリティの爽快感」は、その後の場面にも待ち受けていた。──というところで、この感想文は、次回に続きます。