宮沢賢治の物語が嫌い。(宮沢賢治『詩ノート』感想)
子供のころ、初めて手に取った宮沢賢治の本(たしか『セロ弾きのゴーシュ』)の表紙には「教科書にのっているお話」と書かれた金色のシールが貼られていた。
その後、読み聞かせや国語の教科書で賢治の作品にふれる機会はたしかに多かった。中学校の英語の教科書には『注文の多い料理店』が載っていた。
しかし宮沢賢治の物語は、ときどき妙に過激で攻撃的だ。いま思うことだが、賢治自身のなかに、じつはそういう気質があったのかもしれない。
いくつか思い出すままにあげれば『オツベルと象』『猫の事務所』などは、悪い奴が制裁される展開だが後味はよくない。『貝の火』の主人公の子兎は宝物を得るが、それを鼻にかけて傲岸不遜に振る舞った結果、えらい目に遭う。そして先ほどあげた『注文の多い料理店』。これらはどれも要は「因果応報」を寓話的に描いているのかもしれないが、それにしても「応報」ぶりがあまりにえげつない。
とくに私は『注文の多い料理店』が子供のころから嫌いで、家にあった賢治の作品集を読むときには、この話の始まりから終わりまでのページに栞をはさむなどして避けていた。ふたりのバカな紳士(紳士なのである。バカなのに)がバカ特有の知ったかぶりでどんどん先へ進んでゆくところは不安とイライラをかきたてるし、案の定危機に陥れば取り乱し、間抜けな格好でぶるぶる震えて泣く(紳士が。いい大人が)場面にはほとんど生理的な嫌悪を感じたし、顔が紙屑のようになって元に戻らなかった(先日、友人と、あの表現は発狂の暗喩ではないかという話をした)というよくわからない結末にも当然まったく同情できず、なのに同情できないというそのことが、今度は自己嫌悪ふうの感情となってベタッとのしかかってくる気がするからだった。当時はこれらをいちいち言葉にあらわすことは難しかったが、子供心にもそのくらいイヤだったのだ。
そういえば『風の又三郎』の又三郎も、精霊的なイメージをもたれるキャラクターだが、この作品のパイロット版とみなされる『風野又三郎』を読むと、ちょっと幻滅するほど人間くさいイヤな奴である。あるいはイヤなところが人間くさい。
『セロ弾きのゴーシュ』も、ゴーシュの、動物たちへの悪態のつき方や当たり方が悪質でムカムカする。そのおかげでゴーシュが独奏に成功するのも、取ってつけたような結末のセリフも含めどうもスカッとしない。なんだこいつはという、モヤモヤと滅入る気持ちが残るだけだ。
私は宮沢賢治作品のこういうところは好かない。しかしその一方で、独自性がきわめて高く、かつ生き生きとした自然や気候、鉱物の描写を愛している。
『詩ノート』の詩には、そうした描写がシンプルに詰め込まれている。研ぎ澄まされた感覚からうまれたシンプルで美しい詩が、奥へ向かってずっと並んでいる。それらをひとつひとつ辿るように読んでゆくと、いつのまにか違う世界に入り込んでいる。イーハトーブに踏み入ったのかもしれない。そんな気分にさせられるところがある。以下にいくつか、『詩ノート』の、個人的に好きな部分を引用する。
市街も橋もじつに光って明瞭で
逢ふ人はみなアイスランドへ移住した
蜂雀といふ風の衣裳をつけて居りました
あんな正確な輪廓は顕微鏡分析(ミクロスコープアナリーゼ)の晶形にも
恐らくなからうかと思ふのであります
(七四四 病院 より)
影を落す影を落す
エンタシスある氷の柱
(七四五 〔霜と聖さで畑の砂はいっぱいだ〕 より)
銀のモナドのちらばる虚空
すべて青らむ禁欲の天に立つ
聖く清浄な春の樹の列
(一〇五八 〔銀のモナドのちらばる虚空〕 より)
また、これなど、いかにも賢治らしい毒があるが、詩という形式で簡潔に書かれているとむしろ小気味よく感じられて好感をもつ。
あっちもこっちも
ひとさわぎおこして
いっぱい呑みたいやつらばかりだ
羊歯の葉と雲
世界はそんなにつめたく暗い
けれどもまもなく
さういふやつらは
ひとりで腐って
ひとりで雨に流される
あとはしんとした青い羊歯ばかり
そしてそれが人間の石炭紀であったと
どこかの透明な地質学者が記録するであらう
(一〇五三 政治家)
賢治の描く世界は、いつでも、現実の世界とはまるで違う空気に包まれている気がする。
冬、雪に覆われる土地の早朝の空気に似ている。眼球も凍りそうなほど冷たい空気だ。ただ、現実には無彩色の光景が広がるばかりのところが、賢治の詩ではたえず不思議なものでキラキラ光り、雪も氷も空も植物も、神秘的で特別な美しさを放つ。
賢治作品がもっともすぐれているのは、詩的であり幻想的であるその言語表現が、たしかな理系の教養と知識に基づいているところだ(これは現在の読者から見れば独自性、個性を保証する強みに思えるが、発表当時には評価されにくかった要因のひとつだったかもしれない)。だから、賢治の作家としての能力は、自然の現象や鉱物の輝き、銀河のひろがりを描くとき、おおいに冴える。
最初に私は物語を貶したが、なぜ宮沢賢治を熱心に読んだかといえば、その描写にひかれたからにほかならない。『貝の火』は嫌いな話でもあるが、それ以上に好きな話でもある。タイトルにもなっている「貝の火」なる宝珠──これはファイアオパールのことらしいのだが──の美しさにあこがれたからだ。
ホモイは玉を取りあげて見ました。玉は赤や黄の焔(ほのお)をあげて、せわしくせわしく燃(も)えているように見えますが、実(じつ)はやはり冷(つめ)たく美(うつく)しく澄(す)んでいるのです。目にあてて空にすかして見ると、もう焔(ほのお)はなく、天の川が奇麗(きれい)にすきとおっています。目からはなすと、またちらりちらり美(うつく)しい火が燃(も)えだします。(『貝の火』より)
美しい石、といえば、賢治には『虹の絵具皿(十力の金剛石)』という作品もあるがあれも素晴らしい。
むかし、国語や英語の教科書でなく、理科の教科書に宮沢賢治の作品が載っていたなら、私は理科がもっと好きになっていたかもしれない。学齢期をとっくに過ぎたいまだから、そう思うのかもしれないが。