「説明しないとわからないことは、説明してもわからない」
村上春樹の『1Q84』に出てくる一説を、タイトルにした。狼だぬきも、本くらい読む。特にすることがないからね。読み進める中で、この言葉が特に目に止まり、同時にページを捲る手も止まってしまった。
半分、分かる。もう半分は、すとんと来ない。まるで、はじめて二次関数の頂点を求める公式を教えてもらったときのような感覚。使えるが、腹に落ちない。なぜ頂点が求まるのかが、しっくりこないあの感覚。
二次関数の頂点が平方完成で求まる理由は簡単だった。ただ、x=0の状態からズラした数式であるという見立てに変形することで、頂点が分かる。では、「説明しないとわからないことは、説明してもわからない」はどうだろうか?
ちなみに、小説ではその言葉の意味は記されていない。ように思える。村上春樹という作家はそういう作家だからだ。あるテキストに対して、具体的な答えを提示することはない。仮説を積み上げて、その仮説の輪郭を人物や物語を通して浮かび上がらせるだけだ。読み手のぼくらは、その輪郭を受取り、自分なりに補強するしかない。
「説明しないとわからないことは、説明してもわからない」というテーマについて、説明するのは全く野暮なことなのだろう、と今思う。そういうことかもしれない。あらゆることは、説明しないと分からないが、もっというと説明しても分からないが、それを説明して「分かってもらおうとする」ことや「分かろうとする」こと自体が野暮なのかもしれない。
もしかしたら、「分かろう」とすること自体が野暮なのかもしれない。ぼくらは、調べて考えて分析をすれば分かる、ということを一つの信条にして近代以降歴史を積み重ねてきた。ロジカルシンキングやマーケティングが流行るのも、「分析と思考によって、答えを導ける」ことを前提においた流行だろう。
そういう意味で、「分かる」ことに対する過大評価を見込んで、彼は「説明しないとわからないことは、説明してもわからない」と書いたのかもしれない。
サン=テグジュペリの『星の王子さま』で、王子が言っていた。
「大切なことは、目に見えない」
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』でカムパネルラが言っていた。
「ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。」
大切なことは目に見えないし、本当にいいことをしたら、一番幸せと言えるのかもしれない。無理に分かろうとせず、ただまっすぐに人生に与えられた問いに答えていくこと。淡々と、滔々と。
さらに、エーリッヒ・フロムが『夜と霧』で書いた。
ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。そのことをわれわれは学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。哲学的に誇張して言えば、ここではコペルニクス的転回が問題なのであると云えよう。すなわちわれわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されるのである。人生はわれわれに毎日毎時問いを提出し、われわれはその問いに、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである。人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである。
分からないことに対して、分からないままに答える必要が、人生にはありそうだ。