美しさの基準を明け渡さないこと
今日頭に浮かんだ言葉。
最近、書きたいテーマや思いは浮かぶのだけれど、文章にする中で予想外の方向に進むことが多く、書きかけの記事がどんどん増えている^^;
なので、脱線しないように短めに。
私は普段、自分大好き!というテンションの持ち主ではないのだけれど、自分のことが好きだなあと思える瞬間がある。
それは、何かを美しいと感じている時。
何か、は自然だったり人だったり、時には「考え方」のような形のないものだったりもするけれど、それを美しいと感じる自分の感性は、素直に好きだと思える。
最近は、美しいと感じた時、その感覚を心の中でなるべく細かく描写してみるひとり遊びをしていて、
例えばとある俳優さんについて、お顔立ちも綺麗なのだけれど、なにより内面の輝きを強く感じたので、
「身体の中に大きな電球💡があって、光が漏れ出ているみたい。笑うたびにフラッシュを焚いたように眩しいくらい明るくなるなあ。」
とか、
自然の風景を見て、
「頭の上からつま先へ、滝のようにたっぷりの清らかな水が体を駆け抜けて、心をサッパリ洗ってくれているようだなあ。」
とか、
自分の中で生まれた「美しい」のコレクションをしている。
※ちなみに先の俳優さんについて、とある長寿番組で「ピカチュウになりたい」という発言をしていたことがわかり、(電気のイメージが)当たってる!と勝手に嬉しくなった^ ^
他の人が見たら何とも思わないかもしれないし、逆に他の人が美しいと思うものを、私がそう思わないこともきっとあると思う。
だからこそ、この世で自分の中にしかないこの感性が、愛おしく、尊く思えてくる。
私は家にテレビを置いていないけれど、ネットニュースなどでは「美」という言葉が多用されている。実際見てみると、それはだいたい、長いか、細いか、白い、ということだったりする笑
自分じゃない誰かの美の基準に、思いきり振り回されていた時期があった。
自分の中に、その基準に当てはまらないことを見つけてはがっかりしていた。
誰かの美の基準のフィルターを通して見る世界は、すごく息苦しかった。
自分の中に生まれた美しいという気持ちを育むことは、自分以外の美の基準から解放されることだと思う。
何かに美しさを感じることは、すごく幸せな体験だ。
だから、美しさの基準は、自分以外の誰にも明け渡してはいけない。
忘れないように、noteに残しておきます。