ゆっくり深読み 中島みゆきの『ヘッドライト・テールライト』その⑲「大林宣彦&横溝正史の 金田一耕助の冒険」
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A MOUSOU
(本作品は著者の身体に憑依した横溝正史の霊が世間で駄作の烙印を押されている大林宣彦の映画『金田一耕助の冒険』を種明かしするという妄想です。ネタバレどころか横溝文学の秘密の核心部分にも踏み込みますので予め御了承ください)
絵の中の少女? これですか?
そう。
昭和三十三年(1958年)に作られたアマチュア映画『絵の中の少女』は、大林君にとってのミューズ恭子夫人をヒロインにして撮ったもの。
絵の中に描かれた少女と、想い出の中に生きる少女が、青年の心を戸惑わす悲恋の物語だ。
「少女」って年じゃないですよね。そもそも大学生なんですし。
『絵の中の少女』というより『絵の中の女』です。
ははは。そうだな。
そしてこのアマチュア映画は、奇しくも私の『瞳の中の女』発表直後に作られたものだった…
横「絵の中の少女? 1958年?」
大「つまりその年の6月に先生が週刊東京で発表した『瞳の中の女』のアイデアを拝借したということです」
横「・・・・・」
大「僕が学生時代にここ成城で初めて撮ったオリジナルの8㎜フィルム『絵の中の少女』は、福永武彦の『草の花』を父に、そして横溝先生の『瞳の中の女』を母にもつ作品だと言えます」
角「”瞳”を”絵”に置き換えたということかね? ”瞳”の中の女を”絵”の中の女に?」
大「いいえ。置き換えてなんかいませんよ。そのまま拝借したのです」
角「は?」
横「角川君、私の『瞳の中の女』とは、言い換えれば『絵の中の女』でもあるのだよ」
角「何をおっしゃいますか先生。あの事件に絵なんて出て来ません。灰田は絵描きではなく彫刻家だったでしょう?」
横「いくら話の中で立体物を説明しても、文章である以上それは紙の平面に書かれたものに過ぎない。これは映画でも同じことだな。もし彫刻の不二子像を映したとしても、それはスクリーンの平面に映された画に過ぎない」
角「確かにそうとも言えますが… 先生は何をおっしゃりたいのですか?」
大「角川さん、そもそも瞳の中の女である不二子像は、彫刻ではないんですよ」
角「瞳の中の女、不二子像は彫刻ではない? ほ、本当ですか先生?」
横「ふふふ。本当だよ」
角「お、大林君… これはいったいどういうことなのかね?」
大「簡単なトリックです。”瞳の中の女”とは、”瞳”という字の中の女という意味。つまり不二子像は絵なんですよ」
角「え?」
「瞳の中の女」とは「瞳」という字の中の女?
そして不二子像は絵?
どういう意味なんですか?
「瞳」という字の中の女といえば「童」に決まっとるだろう。
犬童一心の「童」だ。
瞳という字の中の女は童?
しかし「童」は「わらべ」とも読むように、男女ふくめた子供全般を表す言葉で…
では聞くが、なぜ萩本家の「わらべ」は「女の子供だけ」なのだ?
「わらべ」が男女の子供を意味するなら「見栄晴・のぞみ・かなえ・たまえ」の4人組ユニットじゃないとおかしいだろう?
うっ… そ、それは…
「瞳の中の女」とは「瞳」という字の中の女「童」のこと。
なぜなら「童」とは「童貞」つまり「バージン」という意味だから。
童とは童貞、バージン… 確かにそうです…
だから萩本家の三姉妹ユニット「わらべ」から長女の「のぞみ」は外された。
ベッドで撮られたアマチュア写真が流出し、童(バージン)ではないことが世間に知られてしまったから。
そこで番組内で歌を歌う際には、母親の真屋順子が「のぞみ」の位置に入ることになった。
ちょっと待ってください…
真屋順子もバージンじゃないですよね?
彼女は萩本家のお母さんなんですよ?
『欽ちゃんのどこまでやるの!』では、萩本家の父欽一と母順子の夫婦生活は一切描かれていない…
それどころか、二人が肉体関係をもったことすら一言も言及されていないのだ…
つまり母順子は、肉の交わり無しに子を身籠り、産んだということ…
えっ…
というか、これはいったい何の話なんですか?
決まっとるだろう。
瞳の中の女、つまり「童(バージン)の女」の話だ。
童がバージンであることはわかっています…
ちなみに「童」という漢字の元々の意味を知っとるかね?
童という字の元々の意味? 子供じゃないんですか?
「童」という漢字は「目の上に刺青を入れる」という構成になっており、本来の意味は「奴隷・僕(しもべ)」だ。
角「奴隷… しもべ…」
大「瞳の中の女《童》はバージンであり僕(しもべ)である。ちなみに女の奴隷は《はしため》とも言いますね」
角「そして、それは絵の中の女…」
大「ここまでくれば、もうおわかりでしょう」
角「そうか… わかったぞ!」
大「瞳の中の女の正体とは?」
角「それは人々から《童女・童貞女》と呼ばれる存在… そして自分自身を《しもべ・はしため》と呼んだ存在… つまり受胎告知の聖母マリアだ!」
横「わっはっは。ご名答。角川君は加藤武の代役が務まりそうだな」
角「しかし受胎告知の聖母マリア像と言っても無数にあります… 有名どころの画家は皆『受胎告知』を描いていますから…」
横「その通り。西洋画家はほぼ皆『受胎告知』を描いている。一人でいくつも『受胎告知』を描いた作家もいるくらいだ」
角「大林君は《瞳の中の女・不二子像》のモデルが誰の『受胎告知』かわかっているのかね?」
大「ええ。もちろんですとも」
角「レオナルド・ダ・ヴィンチ?」
大「違います」
角「サンドロ・ボッティチェッリ? エル・グレコ?」
大「違います」
角「では、いったい誰の…」
大「横溝先生、あそこにある先生の本棚をちょっと拝見させてもらってもよろしいでしょうか?」
横「ふふふ。どうぞ」
大「おそらくここに… ルネ・クレマンの映画『PLEIN SOLEIL(太陽がいっぱい)』でマリー・ラフォレが持っていたのと同じものが… えーと… ほら、ありました!」
角「そ、それは…」
フラ・アンジェリコの画集?
そう。『太陽がいっぱい』でアラン・ドロンがマリー・ラフォーレに渡したフラ・アンジェリコの画集だ。
あれと同じものを私は持っておった。
大「『受胎告知』と言えば、やっぱりフラ・アンジェリコでしょう。あのルネ・クレマンが映画の元ネタに使うくらいですから。ねえ先生?」
横「わっはっは。もしかしたらルネ・クレマンは私の『瞳の中の女』を読んで映画を作ったのかもしれんな。君の『絵の中の少女』みたいに(笑)」
角「そういえば… フラ・アンジェリコは何枚も『受胎告知』を描いていた… 似たような構図でいくつも…」
大「そうです。ほら、この画集の中にもありますね」
角「1… 2… 3… 4… 全部で6つもあるのか…」
大「だから僕は映画『金田一耕助の冒険』に不二子像をいくつも出そうと言ったんですよ。ナンセンスなギャグではなく、ちゃんと理由があってのことなんです」
角「なるほど… では石膏像の作者に才能がなくて不二子像の顔が本物そっくりではないという設定も…」
大「フラ・アンジェリコが6枚描いた『受胎告知』の中のマリアの顔のことです。それぞれ顔が微妙に違ってて、しかもマリア本人と似ているのかどうかもわからない。もちろんフラ・アンジェリコの場合は技術不足ではないですけどね」
確かにフラ・アンジェリコの『受胎告知』に描かれたマリア像の顔は、すべて微妙に違っていますね…
『Annunciation』
Fra' Angelico
トリックがわかってしまえば、他愛もないことだ。
だから美術品窃盗団ポパイの「ふりむけば愛」と「ふりむけば EYE」の駄洒落だったのか…
POPEYE のセリフ「ふりむけば EYE」とは「EYEPOP」だということ。
「瞳」から EYE(目)が POP(飛び出る)で「童」つまり「マリア」だな。
角「大林君、なぜ私にこれを黙っていたんだ? 銀座の高級クラブで意気投合した夜、君はギャグとパロディのテンコ盛り、日本版『ケンタッキー・フライド・ムービー』を作ろうとしか言わなかった…」
大「最初からトリックを明かしてしまったら面白くないでしょう? それにあの席で僕がいきなり小難しい顔つきで横溝正史の『瞳の中の女』はフラ・アンジェリコの絵『受胎告知』を…って話し始めても、角川さん、あなたは聞きましたか?」
角「うむ… そんな話は聞かんだろうな… もし聞いたとしても、とてもじゃないが信じないだろう…」
大「ですよね? 僕だって最初に気付いた時は信じられませんでしたから。先ほども言いましたように、僕は1958年の6月に東宝スタジオ前の喫茶店で『瞳の中の女』を読みました。とても楽しみにしていたから、あの日のことは今でもハッキリと覚えています」
横「私の『瞳の中の女』を楽しみにしていた? なぜ?」
大「それは、”成城の先生”こと横溝先生の『〇の中の女』シリーズと、僕の成城での暮らしが重なっていたからです。僕が広島県尾道から上京して一年間の浪人生活を経てここ成城に住み始めたのが1956年。そして先生の『〇の中の女』シリーズが始まったのも1956年。ぶらりと入ったあの喫茶店で、たまたま手にした週刊誌に載っていた最初のエピソード『夢の中の女』を読んでから、僕は『〇の中の女』シリーズのファンになりました。その最終話だから『瞳の中の女』は特別に楽しみにしていたんです」
横「ほう。なるほど。なんとも奇遇な話だな」
大「だけど最終話『瞳の中の女』は、事件の真相がわからないまま終わりました。犯人らしき外国人も海外にいて消息不明だと。エピローグでは金田一耕助が《たいへん曖昧な事件で申し訳ありません》と謝る始末です。さらには《ひとつくらいこんな話でもいいではありませんか》と逆切れまでする。僕は読んでて呆気にとられました。この事件だけでなくシリーズ全体をしめくくる金田一の重要なセリフなのに何なんだこれは、と」
映画『金田一耕助の冒険』の原作になった『瞳の中の女』は、本当にそんな酷い終わり方なんですか?
ああ、そうだよ。
だから私の読者の間でも評価は低いし人気もなかった。
締め切りに追われて切羽詰まり、殺しのトリックも思いつかず、もうヤケクソで書いたのだろうと、みんな陰で笑っておったらしい。
しかし大林君だけは気付いたのだ。
最後の一文の意味に。
大「曖昧な事件であることへの謝罪、そして、ひとつくらいこんな話があってもいいと逆切れ。何だこの終わり方は、と思って何度も読み返しているうちに、僕は最後の一文に疑問を抱き始めました。ひとりの美しい女性が殺され、死体が地面の下から発見されたばかりだというのに、この軽さは何なんだと」
角「確かに軽い…」
大「僕は考えました。そしてようやく気付いたのです。『瞳の中の女』は3月24日の夜に起きた事件。つまり、日付の変わり目が《日没》のカレンダーでは3月25日の出来事なんだと」
角「日没で日付が変わるカレンダー? 三月二十五日の出来事?」
大「教会カレンダーですよ。ユダヤ歴に基づいているので日没が一日の始まりなんです。クリスマスは12月25日ですが、前日12月24日の夜をクリスマス・イブと言うでしょう? 事件は3月24日の夜に起きた。つまり教会カレンダーでは3月25日、受胎告知日なんです」
角「あっ… なるほど…」
大「つまり、3月25日に事件現場となった灰田のアトリエへ侵入し、ペンライトの光に照らされた女の顔を至近距離で目撃し、事件をスクープした新聞記者杉田とは、フラ・アンジェリコの絵『受胎告知』の中の天使ガブリエルのことだったんです」
灰田のアトリエに侵入した新聞記者が、ペンライトの光に照らされた女の顔を至近距離で目撃する…
『Annunciation of Cortona(コルトーナの受胎告知)』か…
『瞳の中の女』のトリックに気付いた大林君は、急いで週刊東京のバックナンバーを探し、『〇の中の女』シリーズを読み返した。
そして他の『〇の中の女』もすべてフラ・アンジェリコの絵『受胎告知』から作られていることに気付いた。
つまり彼は、シリーズ全体の「種明かし」のために異色の未解決事件『瞳の中の女』が書かれたということを、私の友人以外の人間で最初に見抜いたのだ。
角「明らかに他の『〇の中の女』とは一線を画す『瞳の中の女』には、そういう意図が隠されていたのですか… すべての『〇の中の女』シリーズが、フラ・アンジェリコの絵『受胎告知』から出来ていることを暗示するため…」
横「はっはっは。だから灰田勝彦のCMソング『僕はアマチュアカメラマン』なんだな」
角「どういうことでしょうか?」
大「実はあの歌には続きがあるんです」
角「続き?」
つづく
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