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ナレーター10周年を迎えました

2010年4月、ニートになった。
24歳だった。
初めての挫折だった。
初めてレールから外れた。
自分などいなくても社会は回るのだと知った。
(当たり前)
高校大学の友人たちと話す。
みんなそれぞれの場でしっかり力を発揮していた。
それなのに自分は…と比較して落ち込んだ。

絶対この仕事だ!と思った。
絶対に向いている!と思っていた。
やってみたら全く上手くいかなかった。

根拠のない自信、自己に対する過大評価、全能感、万能感…
自分が小さくなっていった。

小さくなった時に、小学生の頃を思い出した。
中高大と経ていくうちに忘れていた。
そうだ、元々何も続かない、すぐに諦めて辞めてしまう人間だったではないか。
習い事もいくつもやったけど、ほとんど続かなかった。

中学から吹奏楽と出会い、のめり込んだ。
これだ、というものを見つけた。
だけど、違った。

自分に残されたものは何だろう。
小さい頃から努力しなくても苦なくできたこと、
それは、《しゃべること》《歌うこと》だった。

それ以外に人より秀でているところもなければ、趣味や興味のあることも何もなかった。
そうして回り道をしながら、コツコツと始めた。

今活躍している若い子たちを見ていると、
一気に駆け上がっていく感じがして、
自分は10年も時間を使ってしまったなぁ、
何をしていたのだろうと、感じることが多い。

その時の自分なりに動き続けた。
そして、ナレーターの篠原さなえさんに出会った。これからの道標をくださった。さまざまなことを根気よく教えてくださった。
その1年後、2011年、現・サウンドディレクション小川小一郎さんと再会することができた。

毎年8,9月は自分の状態が良くない。
言葉には気をつけねばならない。
ちょうどこの頃も対人関係のトラブルが多かった。

自分の状態をリセットするために、
東日本大震災から半年後の2011年9月、宮城県石巻市にボランティアに行った。
人のためではなく、自分のために行った。
帰ってきてから少し心持ちが変わった気がした。

程なくして、小川さんから最初のお仕事をいただいた。テレビCMのナレーションだった。
わらびグループ3社の5秒CM。
収録は楽しかった。テレビから自分の声が聴こえてきたのは本当に嬉しかった。
2011年10月のことだった。


あれから10年が経った。
本当にいろいろなことがあった。
三国中、大石小の支援員から広告代理店勤務。からの公立高校と私立高校の掛け持ち…
コミュニティFMで喋らせてもらうところから始まった。ノーギャラだった。
次のコミュニティFMは交通費のみ。毎回500円玉を握りしめて帰った。
それでも自信はあった。ナレーションにせよ、司会にせよ、どうしても自分が周りより劣っているとは微塵も思えなかった。
周りの評価がこうも付いてこないものかと、もどかしく歯痒い時期が何年も続いた。
少しずつ仕事の規模も大きくなり、地元では一番大きいイベントの司会をさせていただけるようになった。番組のレギュラーも何本かさせていただけるようになった。
県外にも活動の幅が広がってきた。
なんとか…ここまで来ることができた。

家族が大きな病に倒れたりと、プライベートでも変化の激しい10年だった。

なんだか疲れてしまって、気力体力ともに10年前より随分と落ち込んでいる。
だけど、年齢的には同世代の方々とご一緒するステージが増えてきたことから察するに、まさに一番脂の乗った世代に差し掛かっているのだろう。
若手でもなく、ベテランとまではいかないくらい。

2021年10月。
ナレーターとしてテレビCMの仕事をいただいたあの日から、今月でちょうど10年。
紆余曲折ありながらも、ナレーター10周年を無事迎えることができた。
多くの方のおかげとしか言いようがないが、
最初の道を示し、その後何度も迷うたびに進むべき道筋を灯りで照らしてくださる篠原さなえさん。そして、最初のお仕事をご依頼くださり、岡田健志を世の中にナレーターとして送り出してくださった、今も毎週お世話になっている小川さん。
心より感謝申し上げます。
ありがとうございます。
いつまで続けられるか、必要としていただけるかは分からない仕事ではありますが、これまで通り、これからも動き続けて、自分らしく生きたいと思います。
今後とも引き続きよろしくお願い申し上げます。


節目ということで、文章にして残しておきます。
まだまだ道半ばです。

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